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◆第3回 たまには日本画を観る( 28.July.2001)

●酒井抱一展
 5月19日−7月1日
 出光美術館 800円

 酒井抱一を評価する気運が高まったのは、ここ20年ほどのことらしい。僕は美術の専門家ではないから(改めて言うまでもないですね)、酒井抱一の画業よりも、ここにきて酒井抱一を高く評価しようとする背景に関心が向いてしまう。それは、近年になって伊藤若冲を大きく見直しはじめたことと重なってくる。
 まあ、それにしても、昨秋の伊藤若冲展(2000年10月24日-11月26日・京都国立博物館)を観て以来、日本画についてはちょっとやそっとのことでは驚かなくなった。なんたって、あなた、まず量が凄かった(総出品数約150点)。一人の画業にスポットを当てたあれだけの展覧会はそうはないですよ。そして、何の予備知識もなければ、僕は若冲を明治期の画家だと信じただろう。点描法を用いたり、水墨画を写実的に描くなど、とても斬新なのだ。実際には1800(寛政12)年に85歳で没しているから江戸後期の画家だ。そうはわかっていても、江戸時代の芸術家とは思えないほど近代的な絵に驚かされた。はるばる川崎市宮前区(当時の住まいですね)からW650(上に写っているオートバイ)を飛ばして、雨の中を京都まで往復した甲斐がありました。ただ、僕はたいていの展覧会は二巡するのですが、あのときは水墨画だけ二回観て、あとはもう疲れてきってしまった。それくらい規模が大きかったわけだが、京都国立博物館にはベンチがほとんどなかったせいでもある。あれは大きな欠陥だと思う。
 けれども、僕にとって若冲はさほど大切な画家、絵師ではない。「達者な画家だなあ」と思うし、立ち止まって溜息をついたりもしたが、「しょせんは飾り絵だもんなあ」と心のどこかに引っ掛かるものがある。思うに、雪舟や円山応挙、ずっと下って富岡鉄斎(以上は僕が大切に思っている絵師だが)らと比べて、若冲は深みがないような気がする。簡単に言うと、あっけらかんときれいすぎるのだ(比べられた若冲こそいい迷惑だと思うが、若造の戯言と草葉の陰で許してくれるだろう)。
 
 ほうぼうに美術館ができ、芸術鑑賞(芸術鑑賞なんて言葉は好きじゃないが)の場が多様化し、開放的になるにつれて、「きれいな絵」偏重主義が蔓延してきたような気がしないでもない。
 大急ぎでお断りしておくが、ここで述べていることは、僕がとんでもなくトンチンカンな思い違いをしていることもありえるので(というよりも、たぶん、そうに違いない)、鵜呑みにしないように。それでも、あえて言うならば、伊藤若冲を高く評価するのは、ヒロ・ヤマガタを巨匠扱いすることと底のほうでつながっているように思う(こう言ったところで、ヒロ・ヤマガタが現代の巨匠であることはまったく揺るがないだろう)。
 
 さて、酒井抱一展だ。
 美術史的に言うと、酒井抱一(1761-1828)は、16世紀末に登場した俵屋宗達 に始まる琳派の3代目ということになる。あいだに尾形光琳が入るのだが、それぞれ100年ごとに活躍のピークを迎えているのがおもしろい。また、酒井抱一は姫路藩主酒井家の第4子なのだが、この酒井家が俵屋宗達のパトロンだったという因縁もドラマティックでおもしろい(あまりに小説家的な見方ですね)。
 酒井抱一は先達の模写(あるいは同じ題材)が多い。今回の展覧会でも光琳を手本とした『八橋図屏風』や『風神雷神図屏風』などを見ることができた。もちろん、酒井抱一は、瓜二つの模写などは描かない。あっちをいじり、こっちをいじっている。音楽における「主題と変奏」のような手法だ。芸術家としてのオリジナリティの問題はここでは触れないが(酒井抱一の場合、主題を先達から借りてきているが、実は主題をひねり出す作業が一番しんどいのだ)、ひじょうに器用な人だったことは、初期の美人画(浮世絵)からもうかがい知れる。
 一点、離れがたい思いにとらわれた絵があった。『夏秋草図屏風(夏草図)草稿』がそれだ。つまり、下書きである。僕はどうも悪い癖があって、タブロー(完成品)よりも、デッサンとか下書きに惹かれる。デッサンのほうが、作者の息吹がよく感じとれると思う。日本画の下書きは珍しいので、創作への道のりを垣間見ることができ、その点でも興味深かった。
 
 ところで、去る7月18日に国際浮世絵学会名誉会長の楢崎重宗先生が97歳で亡くなられた( 僕は楢崎先生が立正大学で教鞭をとられていた頃の学生の一人だ)。楢崎先生との出会いがなければ、こんなふうに日本画を楽しむこともなかっただろう。この場を借りて、ご冥福を祈ります。