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◆第6回 デュフィの共鳴音 ( 10.september.2001)

●デュフィ展 2001年7月21日〜9月2日
秋田県立近代美術館 一般観覧料800円


 オートバイ・ツーリングがてら、横手市のふるさと村にある秋田県立近代美術館に行ってきた。
 秋田は独特な施設づくりをする県で、人間よりも野生動物が多い山中に飛行場をつくったりする。秋田県立近代美術館も車社会にべったり寄り添った形で、秋田自動車道横手インターのすぐそばにある(JR横手駅からシャトルバスが出ていて所要時間は15分)。僕は美術館を都会のオアシスだと思っているから、こういう辺鄙なところにつくるセンスは理解できない。ただし、一極集中を避けるというやり方は、案外、最先端を行ってる可能性もある(東京を反面教師としているわけですね)。美術館は都会のオアシスなんて言ってる僕の頭が古いのかもしれない。
 文句ばかり言ってるようだが、〈デュフィ展〉は見応えがあった。概要をコンパクトにまとめたパンフレットの文章を転載する。

 ラウル・デュフィ(1877-1953)は近代フランスが生んだ、最もフランスのエスプリを表現し続けた巨匠の一人です。そのデュフィのコレクションで知られるパリ、ポンピドーセンター・国立近代美術館と、そこからフランス各地・約40カ所の地方美術館に恒久的に寄託され常設展示されている作品をあわせた、油彩画138点を公開することになりました。
 印象派の影響を受けた時期をはじめマティスの作品に感銘を受けてフォーヴィスム(野獣派)に傾倒した時期、そして晩年の「黒い船」連作の時期まで、それぞれの時期の代表作を網羅した〈デュフィのすべて〉を伝える展覧会です。たとえるならば、世界のどこにもないデュフィ専門の美術館が、2001年期間限定で日本に開館したといえるでしょう。
 不必要なものは排除し、省略に省略を重ね、その上で肝心なものだけを、軽快に、洒脱に、描写する、これこそがデュフィの絵の力です。〈海〉〈室内を含む風景〉〈競馬場〉〈オーケストラ〉〈水浴びする女〉などのテーマを好み、どんなものにも温かい眼ざしを注ぎ、そこに溢れる空気、漂う雰囲気、そして流れる時間さえも画面に表現しています。デュフィの内面(精神)が昇華し、抽出されたエッセンスは独自の響きあう色彩と線の世界を現出していて、観る者を知らず知らずいやしの空間へいざなってくれるのです。
 日々の生活に追われ、慢性的な疲労を蓄積している現代人にこそ、ぜひともふれてほしいデュフィの展覧会です。

 ここで、いやし(癒し)という言葉が使われている。巷に溢れる「いやし」は商魂の「いやしさ」ばかりが目にも鼻にもついて、僕は嫌悪覚えるのだが、しかし、デュフィの絵は確かに癒しの絵かもしれない。デュフィはおそらく性善説にのっとったオプティミストだったのだろう。だから、その絵の前に立つ人を明るい気分にし、希望を持たせる力を持っている。
 デュフィの魅力はそれだけではない。
 弦楽器ではひとつの音を鳴らすと、他の弦が共鳴するという現象が起きる。僕がデュフィの絵から感じるのは、その共鳴音だ。これは〈ヴァイオリン〉や〈楽譜〉や〈音楽家〉を描いた作品にだけ感じるわけでなく、風景画でも肖像画でも僕のなかで音が響きあう。そのヒントは青木理氏による〈デュフィ、「線表現」豆辞典 アラベスクからジグザグまで〉という文章にあった。転載する。〈エスプリ:すべての表現の奥にある作者の精神、機知 デュフィの場合は、自らの努力と価値を他者に知られたくないという、少々屈折した精神がある。それを「ダンディスム」と呼ぶか、「ひねくれ」ととらえるかは自由だが、エスプリという言葉には、そんな微妙なニュアンスを包括して「精神」と呼んでしまう、鷹揚さと便利さがある。きわめてフランス的な言葉である。〉ここに僕が聞く共鳴音の秘密があるような気がする。
 ところで、僕はデュフィの作品を東京、パリ、ニューヨークなどで観ている(そのなかにはパリ私立近代美術館の巨大な壁画〈電気の精〉という傑作も含まれている)。それでわかったつもりになっていたが僕が知っているデュフィはデュフィのほんの一部分でしかなかった。今回の展覧会でようやくその全貌に近づくことができたと言っていい。そこにはセザンヌの模写と言っていいような作品もあって、僕は改めてセザンヌの存在の大きさを感じた。画集や図録で確かめたわけではないのではっきりと断言はできないが、ヴラマンクにもマティスにもカンディンスキーにもモンドリアンにも「セザンヌ時代」というべき作品があるのを記憶している。
 そして今、僕はセザンヌの画集をひらこうとしている。何を聴いてもマイルズ・デイヴィスに戻るのと同じように、僕はセザンヌにかえっていく。