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◆第9回 第9回なのでベートーヴェンの第9なんぞを ( 22.October.2001)

●クルト・マズア指揮
 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
 2001年10月16日 盛岡市民文化ホール 大ホール
 招待(ちなみにS席は前売り14000円)  

 この連載は今回で第9回を迎えた。だからというわけじゃないけれど、ベートーヴェンの第9を聴いてきた。
僕は交響曲をほとんど聴かない。この原稿を書くために第9を聴こうと思ってCDラックを探してみると、うちには一枚も第9のCDがないのだった。いや、そんなはずはない。カラヤン指揮のとフルトヴェングラー指揮のがあったはずだ。あ、そうか、あれはLPレコードだったかもしれない。とすると、録音された第9を少なくとも13年前から聴いていないことになる。しょっちゅう耳にしているような気がしていたのはテレビやFMで聴いていたからだろう。
 で、ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」である。これは規模が大きく、ひじょうに祝祭的な音楽だ。これを聴いて興奮しない人がいたら、ちょっとどうかしている。
 しかも、生演奏だ。舞台にはオーケストラの他に合唱団(今回は盛岡バッハ・カンタータ・フェラインが共演し、大役を果たした)がステージ狭しと勢ぞろいをする。そこにソリストの中村智子(ソプラノ)、永井和子(メゾ・ソプラノ)、ウーヴェ・ハイルマン(テノール)、河野克典(バリトン)を迎えると、そのビジュアルでもって聴衆はまず圧倒される。

 比較するものが手元にないので、感じたままを書くことになるが、随所に繊細な表現があり、新鮮な思いで聴くことができた。ベートーヴェンの第9はもっと大味な音楽だと思っていたのだ。強弱を驚くほどはっきりと強調した演奏にも意表を突かれた。そして、盛り上げるところではハメを外すくらいに盛り上げる。クルト・マズアの指揮は、背中から見ていると「よくわからない」印象なのだが、演奏家にとってはどうなのだろうと興味を覚えた。
 演奏後、鳴りやまぬ拍手のなか、4人のソリストとマズア、コンサートマスターに花束が渡された。東京のコンサートホールでは廃れた習慣が、盛岡ではまだ生きている。昔は着物の女性が花束を渡したもので、これを吉田秀和氏はひどく嫌っていた。拍手は10分以上もつづいた。それに値する演奏だった。

 実は僕は第9をあまり好きではない。音楽に限らず、絵だろうと小説だろうと映画だろうと、あるいは車などでも大袈裟なものが僕は苦手だ。生きていくうえで、そういう大袈裟なものを必要と思わないのだ。今回の来日公演では3種類のプログラム(演目)が用意されていたが、できるならばブリテンの『シンプルシンフォニー』とチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』をサラ・チャンが弾くセット(愛知と京都などがそのプログラム)を聴きたかった。もっとも、チャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』もずいぶん大袈裟な音楽ではあるけれど。