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◆第11回 続・秋の美術展めぐり( 19.November.2001)

〇メルツバッハー・コレクション展
 岩手県立美術館 2001年10月16日〜11月11日
 入館料 一般1000円
 

 岩手県立美術館に行ってきた。連日、超満員と聞いていたので、平日の午後4時過ぎに行ったのに、けっこう人が入っていた(一般に美術館が最も空く時間帯です。朝一番も空いてますが、団体客と重なる可能性があるので避けたほうが無難かも)。
 まず、建物の外観は「何だかパッとしないなあ」というのが第一印象。昨今の凝った造りの美術館ばかり見慣れているせいかもしれないが、倉庫のようなぶっきらぼうさを感じる。
 ところが、この印象はなかに入って一転する。
 いや、その前にもうひとつ難関(?)がある。メインの玄関を入ってすぐの玄関ホールが暗く、狭い印象を与える。ところが、これが設計者の仕組んだ「罠」なんですね。その玄関ホールからグランド・ギャラリーに一歩踏みこんだ入館者は、その空間のひろがりに「おおっ」と感嘆の声を上げるのだ(本当に僕は声が出た)。これぞ設計者の罠にまんまと引っかかったわけで(決して悪い意味ではありません)、グランド・ギャラリーの広さ、高さ、ボリューム感を強調するためにあの玄関ホールを「くぐりぬける」儀式が必要なのだった。と、僕は勝手に納得している(岩手県民会館ができたとき、ホールに向かって上がっていく階段のスペースが高い評価を受けたことを思いだした。この評価は現在もなお生きていて、岩手県民会館には「ホールらしいホール」という存在感がある)。
 内部もひじょうに広い。それに、見やすい(横手市の秋田県立近代美術館では「迷子になりやすいので気をつけましょう」というチラシが置いてあった。「迷子になるようなそんな箱を作るなよ」と僕の前を歩いている見学客が呟いた。僕も同感だ)。
 広いということは大切なことだ。美術館によっては、企画展の最中は常設展を仕舞いこむところもある。いつだったか、オートバイで佐賀県立美術館に行ったときに企画展をやっていて、常設展が見られなかった。しかも、そのときの受付嬢が「常設展なんかりより、企画展のほうが観る価値があるでしょうに」という態度だったので呆れてしまった(これは、実はよくある話なんです)。岩手県立美術館は大きな企画展を開催しても、常設展を観ることができる。これが嬉しい。企画展は観ずに、常設展だけ見たい場合だってあるのだ。岩手県立美術館はこういう要求にも応えられる。

 今回のメルツバッハー・コレクション展は日本人受けする印象派を中心とするコレクションなので、美術館のお披露目という意味ではひじょうに安全な策だったろう。これに対して、これは全国巡回展のひとつだし(実際、僕は新宿の安田火災東郷青児美術館で六月にこれを観た)、この種の企画展は別の場所でもできるという批判があった。しかし、岩手県立美術館ならではの企画展を、生まれたばかりの赤ん坊みたいな美術館に求めるのは酷だろう。むしろ、じっくり時間をかけてもらったうえで、その研究と研鑽の成果を披露していただきたいと僕は願っている。
 ある美術関係者は「ダシのきいていない具ばかりの味噌汁」とおっしゃっていた。うまいことをいうものだ、と思ったが、何年もかかって、いい味のダシにしていくしかないだろう。

 さて、岩手県立美術館の「肝」は二階の常設展にある。これについては今後も触れていく機会があると思うので、一点のみ記す。
 松本竣介と舟越保武の部屋がある。
 そこに入ったときに、胸の奥から込み上げてくるものがあった。岩手が生んだ二人の芸術家の作品が、ようやくできた県立美術館に収められている。「よかった」という思いでいっぱいになる。ただ、芸術を追求する二人の友情を、この空間から感じることはできなかった。たとえば、舟越保武は松本竣介が亡くなった後でも、夕方になるとしばしば「竣介の時間だ」と呟くと何かで読んだことがある。そんな断片でもいいから、展示室のどこかに、説明的でなく、掲示してあれば一種のストーリーをもって、二人の作品に接することができるのではないか(美術品を並べて「後はご自分で勉強なさい」という姿勢は、時代遅れというべきだろう)。ここで初めて二人の作品に接する人も少なくないはずだ。その人たちにもっと興味を持ってもらうための「種」を蒔く工夫が見られないのが残念だ。
 興味を持ってもらえば、萬についても竣介についても、いい本がたくさん出ている。他の美術館にもいい作品がある。旅行のついでに、そこに行ってみようと思う人も出てくるだろう。そのようにして、美術ファンは増えていくものだと思う。
 東京国立近代美術館が所蔵する萬鉄五郎の『裸体美人』が重要文化財に指定され、萬の評価がまた一段と高まってきたが、萬を生んだ地元岩手の人々のあいだにきちんと認識されているかどうかとなると状況は心細い。こういった啓蒙活動も今後の岩手県立美術館が果たすべき役割だ。

 セゾン美術館、伊勢丹美術館、小田急美術館が閉館し、盛岡でも橋本八百二美術館が閉館するなど美術館が「冬の時代」といわれているときに岩手県立美術館はオープンした。
 アメリカでは国内の美術館や博物館の入場者数が10億人を超えた(2000年の統計)。プロスポーツの観戦者数よりも多いのだ。日本は2500万人だ(1998年の統計)。人口比率からいっても極端に少なく、私設美術館が閉館に追いこまれるのも無理はない。これはアメリカ人がそれだけ美術に深い興味を持っているからではなく、宣伝活動がうまいからなのだ。幸いなことに岩手県立美術館はオープン以来、予想を遥かに超える入館者数を記録しているという。しかし、宣伝がうまいという評判は聞こえてこない。
 美術館(あるいは、芸術活動)に宣伝は不要だ、という意見もあるだろう。しかし、入館者数が減り、企画展も開催できないという状況になったとき、一番困るのは美術館経営者ではなく、絵を観る機会を奪われる我々美術ファンだ。実際、ジャズやクラシック音楽は「好きな人だけ聴いていればいい」という風潮が濃厚なため、聴衆がどんどん減っていく傾向にある(そのくせ、ホールばかりが新しくできているが、このことは別の機会に書きましょう)。聴衆がいなくなって、ホール経営が成り立たなくなったときに慌てても手遅れなのだ。現実に、室内楽ホールの名門といっていいカザルスホールがその活動を終えたことは不安な将来を暗示させるできごとだ。
 話を戻す。絵を好きになってほしい、という思いを伝える。いいものを理解する目を養う。これが「絵の好きな人」を増やすことになる。これを怠ると、美術館は消えていく。
 今年三月の橋本八百二美術館の閉館という紛れもない悲劇を、僕は忘れたくない。