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目と耳のライディングバックナンバー

◆第304回 竹内栖鳳を観る(24.Sep.2013)

 東京国立近代美術館で開催中(10月14日まで)の『竹内栖鳳展 -近代日本画の巨匠-』を観てきた。
 栖鳳は横山大観とほぼ同年代に活躍した京都画壇の巨匠で、現役当時は「東の大観、西の栖鳳」などともいわれた。でも、私のまわりには「大観は知っているけれど、栖鳳は知らない」という人が圧倒的に多い。大観が今も国民的画家と呼ばれる一方で、西の巨匠の知名度の低さはあまりに淋しい。
 決して難解な絵を描いているわけではない。空想で虎を描いていた時代と違って、素描に基づくライオンは迫力に満ちているし、四条派や円山派にも通じる犬や猫の絵は撫でたくなるほど可愛い。極端に素人めいたことをいうなら、大観よりも栖鳳のほうがずっと達者だ。
 大観の模写なら「私にも描けそうだ」と思う人が少なくないと思うが(そう思わせるところが大観の「落とし穴」で、実はそう簡単にはいかない)、栖鳳が相手となると溜め息をつくしかない。
 その「天才的な上手さ」がハードルを高くしているのだろうか(大観が天才ではなかったと言ってわけではない。大観も充分に天才だった)。
これは半ば冗談だが、富士山をたくさん(膨大といってもいい)描いた大観に対して、栖鳳に富士山はない。そのせいかもしれない。
 あるいは、西洋画を導入した和洋折衷の画風が、より純粋な日本画が好まれる傾向に反しているのだろうか。ま、いろいろ考えみたが、よくわからないというのが本当のところだ。
 もうひとつ、栖鳳を観ながら別のことを考えていた。
 明治時代、外貨を稼ぐために工芸品が国策として奨励された。栖鳳は西洋画を取り入れることによって、輸出用の工芸品として日本画の活路をひらいたことで知られている。栖鳳の作品はタピスリーや着物の帯、染め物などの商品となった。
 この施策がそのまま続けられていたら、今の日本はもっと別の形で世界に冠たる地位を築いていたと思う。が、そんなことをいってもしようがない。
 工芸品は大量生産の技術が発展するとともにそれによる「似て非なるもの」に圧されて消えていき(と同時に職人も消えていき)、一方で重工業国となって軍事力も付け、他国で血を流す「一等国」の仲間入りを果たすようになる。
 話を栖鳳に戻そう。
 栖鳳は、上に記した産業のために絵を描いたのではないし、それは栖鳳のひとつの側面にすぎない。
 ただ、とにかく何でもかんでも欧米のものを取り入れようと躍起になった明治時代を栖鳳が生きたことは事実だ。日本画もさまざまな挑戦、模索、逡巡、回帰や衝突を経た。1000年以上に及ぶ伝統を背負った日本画が短期間でいっきに変わった(あるいは、変わろうとした)、日本画にとってまさに激動の時代だった。一から始まった西洋画のほうがまだましだっただろう。
 そんなことを思いながら観ていると、一見穏やかそうな作品の背後に、栖鳳の強い意志が込められているような気がするのだった。
 ところで、第297回 で取り上げた『アントニオ・ロペス展』が岩手県立美術館で開催されている(10月27日まで)。ブンカムラの展示室よりも岩手県立美術館の大きな展示室で観るほうが、この画家には相応しいような気がした。
 関連上映された『マルメロの陽光』の会場は超満員だった。この映画はアントニオ・ロペスの制作の仕方を知るのにとても役に立つ。また、人柄もよく伝えている(たとえば、制作中に鼻唄を歌うところなどは画家の意外な一面をとらえている)。もっと気難しくて、付き合いにくい老人を想像していたのだが、まったく逆だった。
 展覧会のほうも集客は上々のようだ。こういう展覧会が人気を集めてこそ、美術館もその美術館を有する地の文化も本物なのだと私は思っている。
〈このごろの斎藤純〉
〇富士スバルラインにロードバイクで挑戦してきた。何度も休み休み、なんとか登りきったが、正直なところ、あれほどキツいとは思っていなかった(私の読みが甘かった)。あいにく濃霧だったため眺望には恵まれなかったが、標高2305メートル(富士山五合目)は私にとって自転車での最高地点であり、一生の思い出になった。
大澤壽人:ピアノ協奏曲第3番『神風協奏曲』を聴きながら

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