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目と耳のライディングバックナンバー

◆第388回 『ヨハネ受難曲』で盛岡バッハ・カンタータ・フェラインの「凄味」を知る(27.Mar.2017)


 盛岡バッハ・カンタータ・フェラインによる『ヨハネ受難曲』の演奏会があった(盛岡市民文化ホール大ホールにて3月20日午後2時開演)。
 『ヨハネ受難曲』は、同じくバッハの『マタイ受難曲』とともに世界遺産といっていい、宝のような名曲だ。名曲ではあるけれど、演奏はかなり難しそうだ。渋い(もっと言うと、地味)作品だけに、聴き手にとっても難しい作品と言っていいかもしれない。たとえば、やはり宗教音楽の傑作中の傑作であるヘンデルの『メサイア』ならば随所に「聴きどころ」、「泣かせどころ」、「盛り上げどころ」などがあって、(こういう言い方は許されるものではないが)サービスが行き届いているのに対して、『ヨハネ受難曲』はバッハの生真面目さがそのまま音楽になったような作品だ。それだけに、演奏する側だけでなく、聴き手にも集中力が求められる。
 この名作を、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインのおかげで、地元の音楽家による演奏で聴くことができるのは、とても幸せなことだ。今回、改めて強くそう感じた。おそらく、それは満員に近かった客席の多くのみなさんも感じたことだろう。1音たりとも聴き逃すまいとでもいうような集中力が会場に満ちていて、バッハの音楽とあいまって、崇高な空間が築かれていたように思う。ああいう雰囲気はなかなか経験できない。
 合唱に限らず、演奏家の力量を判断する基準として私はピアニシモの表現力に注意をはらっている。それは盛岡バッハ・カンタータ・フェラインが教えてくれたことだ。今回、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインはピアニシモの繊細な響きの中に「凄味」があった。これはただごとではないと戦慄させられた。特筆しておきたい。
 『ヨハネ受難曲』を聴くのは、2007年にヘルムート・ヴィンシャーマンを指揮者に迎えた演奏会以来、2度目だ。あの演奏会も素晴らしかったが、今回はどこか親密さがあった。やはり、佐々木正利氏が指揮をとられたからだろうか。
 親密さといえば、合唱と管弦楽がまるでひとつの楽器のようにまとまっていることに今回、改めて感銘を受けた。この作品はあくまでも声楽(合唱と独唱)が主役で、管弦楽は伴奏である。バッハは管弦楽が決して目立たないように抑えて書いている。ところが、目立ちこそしないが、この管弦楽を抜くと味気ないものになってしまうだろう。そのあたりの加減が絶妙なのだ。その絶妙さが実にうまく表現されていて、「こんなにいい曲だったのか」と気付かされた。管弦楽は盛岡バッハ・カンタータフェラインとの長い共演歴を持つ東京バッハ・カンタータ・アンサンブル(コンサート・マスターは蒲生克郷)である。
 それにしても宗教音楽というのは、本当によくできている。文字を読めない人が多い時代に、聖書のエッセンスを耳から吸収させる役割を果たした。さらに、「劇的な空間」を音楽でつくりあげた。テレビも映画もないあの時代の人々がどれだけ陶酔し、静かに熱狂したことか。間違いなく、宗教音楽は民衆と神を結ぶ「絆」だったのだ。
 盛岡バッハ・カンタータ・フェラインの聖なる響きに身をゆだねながら、そんなことを思った。
〈このごろの斎藤純〉
〇いよいよオートバイシーズンが幕を開けた。まだ先の話しだが、今夏は還暦祝いに北海道ツーリングを予定している。北海道と一口にいっても広い。限られた日程の中で、どういうルートをまわろうか、あれこれ考えている。オートバイ・ツーリングは計画段階も楽しみの内だ。
スタイル・カウンシル:カフェブリュを聴きながら