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◆第47回 現代の尺八を聴く (7.april.2003)

『ブライト・ワンズ、ダーク・ワンズ』 カンデラ・デュオ・コンサート
2003年3月31日 おでってホール

 知的な音楽がある。それは何も難解な12音技法を駆使して作曲されているとか、演奏家が有名な音楽大学を出ているといったこととは関係がない。芸大出の演奏家が奏でる音楽がどれも知的であるとは限らないし、またそうである必要もない。あるいは、知的な音楽というと頭でっかちな冷たい音楽で、感動とは無縁のものと受け取られる恐れもあるが、それも違う。
 僕たちは夕陽を見て感動するし、小説や音楽からも感動を得る。後者は豊かな想像力が感動を与えてくれるのだ。想像力とは知性のもうひとつの顔だ。
 カンデラ・カルテットのメンバー二人によるユニット、ブルース・ヒューバナー(尺八、フルート)とジョナサン・カッツ(ピアノ)のコンサートは、尺八によるジャズという表面的な珍しさばかりが強調されがちだが、知的な音楽を堪能することができた。

 尺八によるジャズといえば、山本邦山のCDを以前はよく聴いたものだ(ちなみに山本邦山は越境する音楽家の先駆者で、クラシックの現代作品やジャズ、それにバロックまでも演奏してしまう)。また、外国人による尺八の演奏家としてはジョン海山ネプチューンが知られている。
 が、他に名前を挙げることができない。現代の音楽にとって、このように尺八は決して身近な存在ではない(もちろん、伝統的な尺八の演奏家はたくさんいらっしゃるが)。
 まず演奏が難しいことが、尺八を我々から遠ざける。それに尺八の音楽そのものも難解なので、楽しむことができない。ポピュラー音楽を演奏しようとする場合、尺八は独特の楽譜を用いているため、ピアノやギターなどと合わせるのが難しく(このごろは五線譜も用いられているそうだが)、これも妨げになっている。
 しかし、何よりも「抹香臭い」とか「古い」という先入観が、尺八にとっては大きなマイナス要因となっていると言っていい。ブルース・ヒューバナーは、これらの壁を乗り越えて我々の前に登場したわけだ。

 なぜ、尺八なのか。ヒューバナーさんは「自然の竹(多分に東洋的な趣を感じさせる)を使った、五穴のシンプルな楽器に大きな可能性を見出したから」だと説明した。一方のピアノは複雑な構造を持ち、音域もひろく(一台でオーケストラの楽器すべての音域をこなす)、歴史も奏法も西洋そのものと言っていい。「新相馬節」、「南部牛追唄」といった民謡、コルトレーンが好きだという紹介で始まった「チムチム・チェリー」(CDには「アフロ・ブルー」も収録されているが、この日は演奏しなかった)、スタンダードの「朝日のように爽やかに」、それに「ライズ・アバブ」などのオリジナル曲を聴けば、言葉による説明は不要だ。尺八は彼の想像力を刺激し、そこから生まれた音楽が我々の心を揺さぶる。この夜のおでってホールで起きたことは、そういうことに尽きる。
 アメリカ人のヒューバナーさんは尺八の伝統を踏まえた上で新しい音楽を創造しているのだが、奇しくも前回紹介したチャランゴ奏者の福田大治さんも、ボリビアから見れば外国人だ。これは一考に値する。

 ジョナサン・カッツのピアノも興味深く聴いた。独特の和声のセンスの持ち主で、「このメロディにこんなコードがつくのか」と、尺八の音色と共に驚かされっぱなしだった。ブラジル音楽の巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンとクラウス・オガーマン(ジョビンの曲のストリングアレンジで知られる)とストラヴィンスキーの香りを僕は感じた。

 ところで、この日のコンサートに関して特筆しておきたいことがある。PAをいっさい使わず、生の音で聴かせてくれたのだ。このごろのジャズライヴは小さなホールでもPAを使うことが半ば常識化している(クラシックのコンサートでは、大きなホールでもPAを使わずに生の音だ)。そのため、せっかくグランド・ピアノを使っているのに、電気的な音にしてしまっている場合が多い。この傾向にずっと疑問を感じていた。カンデラ・デュオの演奏は、PAがなくても、ちゃんと音楽ができることを証明した(尺八の音量に合わせて、ピアノの蓋を半分までしか上げていなかった)。
 昨今はCDで聴く音楽を基準にするから、必要以上にPAに頼ってしまうのだろう。ライヴの響きはCDとは違って当然なのだ。しばしば、ホールの音響担当者がそのことを理解していないことが多い。これも一考に値すると思う。

 二人とも流暢な日本語を話すうえに、かけあいのお喋りがとてもおもしろかった。CDではこの雰囲気は味わえない。PAを通さないアコースティックな響きと共に、そういう意味でも、やはりライヴ会場に出かけていき、目と耳と、そして心を開いて楽しむことが大切だ。

◆このごろの斎藤純

〇遠い海の向こうで行なわれている戦争が、コンサートを聴く僕に心理的な影響を及ぼしている。ギル・シャハムのリサイタルでは、「ユダヤ系アメリカ人の彼は、今度の戦争をどう受け止めているのだろうか」という思いが脳裏をよぎった。上に報告したカンデラ・デュオのコンサートでも、「こんなに知的で、愉快なアメリカ人もいるのに、なぜ」と思ったりした。だが、ひとたび音楽に身を委ねてしまえば、そういった思いも消え、人種も年齢も性別も超えて会場全体がひとつになる。ロックコンサートのように手を振り上げて絶叫する一体感とは別の調和がそこにはある。
〇「イラク攻撃に抗議し、即時中止を求める緊急集会」(3月29日盛岡市の岩手教育会館、イラク戦争に反対する岩手の会主催)で開会のあいさつを依頼された。怒り、哀しみ、落胆、不信感、諦めといった思いが交錯し、考えがまとまらないまま壇上に立った。「戦争に反対するという強い意思だけが、我々の武器だ。怒りの炎を心に燃やし続けましょう。諦めれば、戦争に加担するのと同じことになる」と、やっとの思いで話してきた。

J.S.バッハ/音楽の捧げ物を聴きながら