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◆第57回  優しく、深く、どこか哀しい( 3.november.2003)

 弦楽合奏団バディヌリ 第7回定期公演
 2003年10月25日 盛岡市民文化ホール大ホール
 弦楽合奏団バディヌリの定期公演を聴いてきた。
 演奏曲目は以下のとおり。

第一部
@コンチェルト・グロッソ Op.6の6(A.コレルリ 1653-1713)
A弦楽オーケストラのためのプレリュード(G.フィンジ 1901-1956)
B富める人とラザロによる5つの異版(R.ヴォーン・ウィリアムズ 1872-1958)

第二部
C秋のロンド(長谷川恭一 1951-)
Dディベルティメント K.138(モーツァルト 1756-1791)
E弦楽のためのアダージョ(S.バーバー 1910-1981)
Fサー・ロジャー・ド・カヴァリー クリスマス舞曲(F.ブリッジ 1879-1941)
アンコール
Gひょっこりひょうたん島(宇野誠一郎作曲、長谷川恭一編曲)
Hサー・ロジャー・ド・カヴァリー クリスマス舞曲

 バロック(@)から古典派(D)、近年のバディヌリが(というよりも寺崎巌さんが)傾斜している近・現代のイギリス弦楽作品、そしてオリジナル作品が並んでいる。一見、バラエティ豊かな選曲だ。しかし、聴き終えてみると、ちゃんと筋が通っていて、ばらばらな印象を受けないのは選曲の妙と言っていい。

 Cは長谷川恭一さん(盛岡在住)の作品だ。これはパディヌリのために長谷川さんが書いた〈弦楽のためのセレナード〉の第4楽章だ。古典派と思わせておいて、途中にピアソラを彷彿させるタンゴがあらわれる。ここで演奏者には「ハメを外す」ことが要求されるのだが、バディヌリはみごとにハメを外してみせたから大したものだ。この曲には長谷川さんが仕掛けを施していて、バッハとバディヌリへのオマージュとなっている(パンフレットにその説明があるのだが省略する)。
 去年の定期公演(バックナンバー第36回参照)では第3楽章が〈種山が原〉のタイトルで演奏されているが、〈弦楽のためのセレナーデ〉全曲演奏の際には新たに第5楽章が加えられる予定だという。今のところ全曲演奏の具体的な目処はたっていないものの、これの実現を望んでいるのは僕だけではないと思う。

 日本初演(!)となるAは、まるで我々が暮らしている東北を描写したような音楽だ。透明感に満ちているが、野放図な明るさではない。むしろ、ちょっと暗いかなあ、という感じを受けるかもしれない。けれども、重く陰湿な暗さではない。僕たち東北人は厳しく長い冬を過ごすが、その後には必ず春がやってくる。そんな東北の自然とそこから生まれる情感が、この曲にはある。
 これを作曲したジェラルド・フィンジは、僕が持っている「音楽中辞典」(音楽之友社1999年)という小さな辞典に出ていないことからもわかるように、日本ではあまり知られていない(評価されていない、と言いなおしてもいいかも)。
 作曲家としてばかりでなく、王立音楽院の和声の教授として教育指導面でも活躍したフィンジだが、都会の喧騒を嫌って、30代の頃からハンプシャー州ニューベリーという田舎で暮らすようになる。果樹園を営み、アマチュアの弦楽合奏団を組んで演奏活動を行ない、晴耕雨読(イギリスにこういう言葉があるかどうかはともかく)の生活のなかで生まれた作品から、田園の情感が伝わってくるのは当然だろう。そんなカントリーライフを愛したフィンジは極めて寡作で、作品番号がついているものはわずか40だという。

 Bのヴォーン・ウィリアムズは貴族階級の出身。マックス・ブルッフとラヴェルに師事しているから、ドイツ音楽とフランス印象派を吸収したことになる。けれども、ヴォーン・ウィリアムズがイギリスの人々に愛され、国民作家と呼ばれるのは、古い教会音楽や民謡を研究し、それを自作にとりいれることによって「イギリス音楽」をつくりあげたからだ。
 イギリス音楽は(誤解をおそれずに言うならば)フランス音楽よりも日本人には親しみやすいように思う。「蛍の光」や「羽生の宿」を日本の歌曲だと思いこんでいる人だってたくさんいる。だから、初めて聴いた曲でも、懐かしさを感じたりする。この曲もそういうイギリス音楽のひとつだ。寺崎さんはヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」も以前からレパートリーに入れているから、お気に入りの作曲家なのに違いない。

 ヴォーン・ウィリアムズ、フィンジは同時代の人だが、Fのフランク・ブリッジもそうだ。この曲に寺崎さんは25年前に出会った。いつか演奏したいと望んでいたが、楽譜のレンタル料が高額なうえに、相当な演奏技術を要するので、なかなか実現できなかった。今回、結成22年のバディヌリは満を持して取り組んだと言っていい。
 これが実にいい演奏で、まるでバディヌリのために書いた曲ではないか、と錯覚するほどだった。明るく躍動的な曲で、確かに演奏は難しそうだ。「蛍の光」の旋律をヴィオラが奏でる部分を、アンコールではヴィオラ・セクションが立ち上がって弾いた。
 もともとヴァイオリンを弾いていたブリッジは、途中からヴィオラに転向し、作曲家として活躍するようになってからもヴィオラを弾いていたという。だから、ヴィオラが目立つ、こんな曲を書いたのだろう。
 ブリッジはベンジャミン・ブリテンの師匠として知られている。それで口の悪い人は、ブリッジの最高傑作はブリテンだ、などというそうだ。

  イギリスの作曲家の作品リストを見ると、ヴィオラあるいはチェロのコンチェルト、ソナタが多いことに気がつく。これはヴィオラやチェロの音色がイギリス人の趣味に合っているのと、これらの演奏方が近・現代になって飛躍的に向上したおかげかと思う。
 ちなみにナクソスというレコード会社がイギリス音楽に力を入れていて、弦楽作品集がいっぱい出ている。この会社のCDは1000円程度と安い。しかも演奏の水準も悪くないので、興味のある方はナクソスのカタログからどうぞ。

  @のコレルリは器楽曲の可能性をひらいた作曲家として知られ、ヴィヴァルディも影響を受けている(ということは、間接的にバッハにも影響を与えたわけだ)。明るい曲調なのだが、ただ明るいだけではなく、どこか哀切がにじんでいる(バロック音楽はどれもそうだと言っていいけれど)。
 これはDにも通じる。モーツァルトはスピード感や軽さが鍵だ。だからといって音楽の中身が薄いわけではない。「生の哀しみ」をモーツァルトは音楽に込めている。寺崎さんはプログラムに「『純粋』と書いて『モーツァルト』と読む。それほど無駄なく音符の一つ一つとその統合がすべてにおいて神がかり的」とモーツァルト観を記している。

 今、僕は「生の哀しみ」と表現した。なぜ「生」が「哀しい」のか。
 一番わかりやすいのは、美しい夕焼けを眺めているときの心境だ。きれいなものを目の前にしているのに、なぜか涙が流れる。それは喜びの涙(嬉し泣き)とも違う。このとき、僕たちは目に見えているもの以外の何かに感謝し、畏怖を覚え、そして感動している。作曲家はそれを音楽であらわそうとしてきたのではないか、と思う。
 いや、作曲家ばかりではない。演奏家だって同じだ。
「上手な演奏は哀しい響きがする」とは、一関のジャズ喫茶ベイシーのマスター菅原正二さんの言葉だ。菅原さんはこういう短い言葉で真理をつかまえるから怖い。マイルズ・デイヴィスのトランペットだって、ビル・エヴァンズのピアノだって哀しい響きがする。
 この日のバディヌリの演奏が、まさにその言葉どおりだった。明るい曲でも哀しく聴こえる。夕陽を前にしているときのように。

 曲もいいし、演奏もいい。こういうアマチュア音楽家たちが盛岡を拠点に活躍していることが嬉しい。
 けれども、客席は半分が空席だった。
 盛岡市民文化ホールは盛岡市文化振興事業団の管轄だ。その名が示すとおり、地域の文化振興のために海外からの大物アーティストを招いての自主公演などに取り組んでいる。それは高く評価するものの、やはり地元の文化活動にちゃんと目を向けることも大切だろう。
 たとえば今回のバディヌリの場合は社会人の楽団なので、広報宣伝活動に割く時間がとれない。盛岡市文化振興事業団は貸しホール業者ではないのだから、広報宣伝活動を手伝うなどの具体的な支援を行なってもいいと思う。そういう活動こそが文化振興なのであり、また「開かれたホール」にもつながっていくのではないだろうか。

◆このごろの斎藤純

〇いつも組んで仕事をしている小原信好カメラマンと二人で、会津、上越、飯豊連峰、月山をまわってきた。〈BMW BIKES〉という季刊のオートバイ専門誌の取材のためのツーリングだ。各地の紅葉を見てまわり、小原くんと「今年は色が渋いようだ」と意見が一致した。
〇田園ハーモニーコンサート2003(第2回)のお知らせです。僕が所属(ヴィオラを弾いてます)田園室内合奏団が出演します。入場無料ですのでお誘い合わせのうえご来場いただければ幸いです。

2003年11月30日(日)14:00矢巾町田園ホール
曲目: ヘンデル メサイヤ抜粋 他
客演コンサートマスター 長谷部雅子(東京ゾリステン・コンサートマスター)、コントラバス 安達昭宏(フランクフルター・ムゼウムス・オーケストラ・サイトウ・キネン・オーケストラ)、ソプラノ 村松玲子(岩手県立不来方高校)
指揮:寺崎巌
合唱指揮: 阿部智則(岩手県立不来方高校)
出演:田園室内合奏団、田園ホール混声合唱団、コールパープル、矢巾コール、コール・ネネム、コールM、矢巾中学校・矢巾北中学校・不来方高校音楽部

〈ソロ・ギターのための作品集/セゴビア〉を聴きながら