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◆第59回  水墨画を観て考えたこと・その3( 1.december.2003)

「国宝 大徳寺 聚光院の襖絵」展
東京国立博物館平成館 2003年10月31日〜12月4日

 都内で打ち合わせを終え、次の仕事が入っている仙台へ行く新幹線が出るまで、一時間ほど自由時間ができた。上野の森美術館では「ピカソ・クラシック 1914-1925」展を、東京国立博物館では「国宝 大徳寺 聚光院の襖絵」展をやっていた。どっちにしようか、などと迷わず僕は上野公園をつっきって東京国立博物館へ向かった。
 10年前だったら(やはり迷わず)ピカソに行っていた。5年前だったら、30分ずつ両方を観た。5年後はどうするだろうか。もしかすると、もう絵など観ていないかもしれない(まあ、生きていればの話だが)。

 大徳寺聚光院の襖絵(46画)は、織田信長や豊臣秀吉に気にいられて、いわば御用画家・宮廷画家として活躍し、一世を風靡した狩野永徳の「美の世界」を伝えるものだ。国宝なのにふだんは非公開という不条理(国宝というのは、国民の宝という意味であって、その持ち主である国民に対して非公開とはどういうことだ)に腹を立ていたのですが、ようやく観ることができた。
  正確には永徳が父の松栄と共同で制作にあたったのだが、狩野派史において松栄は影が薄く、もっぱら「永徳の父」と呼ばれるにとどまっている。その永徳も「元信の孫」と表記されることが多い。 ま、永徳は天才だったから、扱いに差をつけられるのは仕方あるまい。松栄も分をわきまえた人だったようで、元信の子として君臨するよりも、我が子永徳の引き立て役に徹することで「狩野家」の地位を確固たるものにした(これは僕の勝手な解釈なので、信じてはいけません)。

 永徳は安土城、桃山城、聚楽第などの障壁画を制作して狩野派の名前を天下に知らしめるばかりか、後世にその名を残すことになるのだが、それらはその建物と運命を共にし焼失してしまった。だから、永徳は「偉大な画家」としての名前が残っている割に、現存する作品は少ない。
 聚光院の襖絵は水墨山水画なので、上記の障壁画のような華々しさはとは異なるが、力量を推し量るには充分だろう。聚光院の襖絵を描いたとき永徳は24歳だった。そして、永徳は47歳で没する。父の松栄が73歳で亡くなるのはその二年後だ。

 ところで、水墨画という語を分解してみると、水が主で、墨が従となる(違うかな)。墨絵という言い方もあるが、これは水墨画の一面しか伝えない語だ。
 水墨画を描いているのを見ていると、墨をあまり使わないことがわかる。濃淡をつけるのに水で調整する。とても微妙な調整だ。水墨画の極意に「墨を惜しむ」という教えもあるくらいで、すった墨をそのまま使うのはごく一部だ。
 いずれにしても、墨の濃淡だけで花鳥風月を描くのだから、ちょっと考えただけでも尋常なことはでないと想像がつく。
 しかも、襖絵のような大作でも、一気呵成に描かれたことが筆の勢いでわかる。現代の水墨画を観る機会があるが、たいていが技巧に走りすぎていて、一気呵成の勢いがない。才気で描く時代ではないということなのだろうか。

 水墨画のもうひとつの特徴は、筆の跡を絵に見せる独特の技法にある。これは西洋画にはないものだ。
 西洋画では筆の跡を見せないことが絵画技法の基本にあり、その基本で発展してきた。これがくつがえされるのは19世紀に印象派の画家たちが登場したときだ。
 たとえばセザンヌ(セザンヌを印象派とすることに異議があるのは承知しているが)にはモノクロにすると水墨画に見える作品があって面白い。

 永徳が信長や秀吉のために腕をふるっていたのは、西洋ではルネサンス末期からバロック初期の時代にあたる。洋の東西を問わず、当時の芸術は権力と結びついていたわけだ。よくも悪くも、権力者の庇護のもとで芸術は発展した(もちろん、ここには宗教もからんでくるが)。
 19世紀から20世紀にかけて、芸術の庇護者は大衆へと移行した。その結果、僕たちは永徳と松栄が描いた襖絵を博物館で観ることができる。

◆このごろの斎藤純

〇オートバイのシーズンが終わった。僕はウィンタースポーツをやらないので、家にこもりがちになる。それで、去年からウォーキングをはじめた。雪道を歩いているうちに歩くスキーに興味を持ったのだが、去年は挑戦できなかった。この冬こそ歩くスキーをやってみたいと思っているのだが、果たして雪に恵まれるかどうか。

スラヴァ・グリゴリアン・リサイサルを聴きながら