トップ > 目と耳のライディング > バックナンバーインデックス > 2004 > 第62回


◆第62回  ギターを聴く その1( 12.January.2004)

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 風邪が流行っているみたいです。僕も流行に乗り遅れることなく、風邪をひいてしまいました。
 風邪のせいで年末年始はどこにも出かけられなかった(忘年会もほとんど欠席)。せっかく買ったのに積んだままだった本をひらき、ゆっくりとCDを聴いて過ごした。
 日が暮れると、ついお酒に手がのびてしまう。お酒を飲みながら本を読み、CDを聴くのは僕にとって至福の時間だ(ながら族の極み----とも言う)。
 けれども、お酒が入ると眠くなってしまうから、読書量はいっこうに増えない。酒と読書は両立しない----いや、そんなことはないなあ、僕の知っている読書家は(井家上隆幸さんも池上冬樹さんも村上貴志さんも)みんな大酒飲みだ。

 洋画・日本画を問わず明治美術に興味を持っているので、このごろはもっぱらその方面の本を読むことが多い。小説のための調べ物というわけではなく、単に趣味で読んでいるのだけれど、小説の題材になりそうなことに出会った。高橋由一と共に洋画の先駆者だった川上冬崖は、スパイ事件に関与した疑いを持たれた後、自殺したという。残念ながらこの事件について詳しく書かれた本にはまだ出会っていない。資料が少なければ創作で埋めることができるので小説にするには絶好の題材といえないこともないのだけれど。

 このところCDはクラシックギターを主に聴いている。
 ギターアンプを通さない、アコースティックギターの響きが好きだ。クラシックギターの音色は、ポロ〜ンと弾いただけで(それが曲ではなくても)センチメンタルな気分を誘う。上手な人が弾くギターの音色は透明感がある。透明感が増せば増すほど、そこはかとない物悲しさも増す。
 アンドレス・セゴビアはその最たるものだが、それゆえ「べたべたと甘いセンチメンタリズムに流されすぎ」と批判も受けた。セゴビアはそんなことは百も承知で自分の音楽を追及したに違いないのだが。

 とても驚いたことがある。ギターの名曲といえば、「アランフェス協奏曲」のロドリーゴと並んでアルベニスとグラナドスの作品が有名だ。しかし、なんとアルベニスもグラナドスもギター曲はひとつとして作曲していないのだ(!)。
 それじゃアルベニスの「アストゥリス」や「グラナダ」、グラナドスの「ゴヤのマハ」は何なのか(曲名はともかく、どれも必ず耳にしている名曲です)。実はこれらギター音楽の定番は、もともとピアノ曲や歌曲だ。つまり、ギタリストが演奏しているのはギター用の編曲版というわけだ。
 いや、みなさんはとうにご存じだったかもしれませんが、この事実を僕は初めて知りました。なにしろCDを買っても、ろくにライナーノーツ(CDに入っている解説書)も読まないもので。

 長いことクラシックギターはクラシック界で異端視されてきたが、これは、どうやらそのあたりに理由があるようだ。つまり、レパートリーに編曲版が多い。「バッハがあるじゃないか。セゴビアがたくさんの録音を残している」という声が聞こえてきそうですが、あれだって編曲ものだ。
 クラシック界は保守的なので、編曲ものは軽く見られ、相手にされない傾向が強い。それでクラシックギターは「クラシック音楽に非ず」みたいな扱いを受けてきた。

 でも、編曲版を嫌うのはこの4、50年くらいに根付いた傾向だと思う。というのも、ヨーロッパでは交響曲をピアノ用とか弦楽四重奏用などに編曲したものが、少なくとも第2次大戦前くらいまでは愛好されてきた。クラシックギター用の編曲もその延長だと思えば決してクラシックの歴史に反するものではない。
 ただ、ここで言うかつての愛好家とは、家庭でクラシックの演奏を楽しむ人たちのことだ。レコードが普及する前は、自分たちで演奏して楽しむのが普通だった(これ、あくまでもヨーロッパのお話ですよ)。

 クラシック界でクラシックギターが異端視あるは軽視されてきたもうひとつの理由は、巨匠によるギター作品がないことだ。シューベルトもベートーヴェンもメンデルスゾーンもチャイコフスキーもギター作品を書いていない(編曲版ならあるけど)。クラシックの巨匠が作品を書いていないのにクラシック音楽といえるか、と言われれば「そうかあ。クラシックギターはクラシック音楽じゃないのか」と、うなだれるしかない(クラシックギターが好きな方からは「コストやタルガ、メルツ、ソル、アグアドがいるではないか」と猛反論を受けそうだが、この方たち、ギター界では知られていても一般のクラシック愛好家には無名の存在だ。「どんな交響曲を残していますか」と聴かれたりしたら、ひとたまりもない)。

 セゴビアに話を戻す。
 ギターといえば民俗音楽か大衆音楽の楽器と(クラシック界からは)蔑視されていた20世紀にクラシックギターを復活させたのがセゴビアだ。セゴビアは著名な作曲家にギター曲を書くように依頼したり、忘れられていた曲を復活させたり、ギター用の編曲を手がけるなどしてレパートリーを増やした。また、旺盛な演奏活動と録音活動によって、ギターがピアノやヴァイオリンに匹敵する深い表現力を持つ「クラシック音楽の楽器」であることを証明した。さらに、セゴビアのもとからは、優秀なギタリストが巣立っている。ナルシソ・イエペスもジョン・ウィリアムズもセゴビアの弟子だ。

 バッハの「シャコンヌ」編曲版(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番BWV1004)をセゴビアとイエペスで聴く。
 セゴビアの手にかかるとバッハがまるでスペインの音楽に聴こえる。セゴビアはこれを編曲した際に「この曲をバッハはヴァイオリンではなく、リュートのために作ろうとしたのではないかと思ったほどギターに向いている曲」と言ったとか。ま、その言葉どおりの我田引水というか牽強付会というか、要するにセゴビアの音楽となっている(貶しているのではありません。僕はこれが大好きでよく聴いているんですから)。

 「シャコンヌ」はイエペスも編曲している。セゴビアの前でイエペスがそれを披露した際、セゴビアは「バッハを勉強しなおしてこい」と怒ったそうだ。僕にはセゴビアのスペイン風バッハよりも、イエペスのほうがバッハに近い音楽に聴こえるのだけれど。ちなみにイエペスはこれを(独自の)十弦ギターで弾いている。
 「シャコンヌ」にはオーケストラ版(確か斎藤秀雄も編曲していますね)や弦楽合奏版、ピアノ版(ブラームスのがあるが、ブゾーニのが有名)など多種多様な編曲版がある。バッハが残した芸術の懐の深さのあらわれといえよう。

 ところで、アルベニスとグラナドスのオリジナル(ピアノ曲)が聴きたくなり、妻のピアノの先生からピアノ作品集(どちらも名演の誉れ高いアリシア・デ・ラローチャの演奏)をお借りして聴いた。「なるほど、こういう曲だったのか」と思いつつ「これはもともとギター曲で、それをピアノ曲にしたのではないか」と事実とは逆の連想をした。

 風邪のせいで家を出られなかったが、本とCDのおかげで「ここではないどこか別の世界」に行くことができた。

◆このごろの斎藤純

〇年末近くになるとさまざまな雑誌から「年間ベスト10」のアンケートが送られてくる。僕は小説や音楽などに順位を付ける趣味を持っていないので応じない。スポーツやレースと違って順位など付けられないものを相手に格闘しているのだから。
〇今回はいつもとは趣を変えて書いた。次回もこのつづきです。ギターの歴史って、古いようで新しいんですね。え、どういうことかって? それは次回のお楽しみ。
〇現在発売中の〈BMW BIKES vol.21〉に北東北のブナ林ツーリング紀行文を、〈アウトライダー復刊第4号〉と〈MOTO NAVI冬号〉にショートストーリーを書いている。文芸誌では「小説新潮新年号」に岩手を舞台にした連作短編ミステリーの第3回が掲載されている。また、今月末に徳間書店から長編小説『沈みゆく調べ』が出ます(詳細はいずれまた)。

セゴビアの弾く「シャコンヌ」を聴きながら