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◆第67回  これは大変なものを聴いてしまった( 22.march.2004)

 ライプツィヒ放送交響楽団(ファビオ・ルイジ指揮)
 2004年3月10日 盛岡市民文化ホール大ホール

 あまり気乗りしないコンサートだったのだが(ベートーヴェンの5番とブラームスのヴァイオリン協奏曲を一度に聴くのはちょっとヘヴィだ)、いやあ、行ってよかった。こんなに音楽に集中し、気持ちよく飲みこまれ、終演後に爽やかなカタルシスを得られたのは久しぶりだ。
 まず、演奏曲目をご覧ください。

@ベートーヴェン:序曲「レオノーレ」第3番 Op.72a
Aブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
  ヴァイオリン:川久保賜紀
Bベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67
アンコール ベートーヴェン:交響曲第8番 第2楽章

 序曲「レオノーレ」がはじまったとたんに「これはちょっと違うぞ」という気がした。この曲はコンサートの一曲目に手馴らしという感じでよく演奏されるけれど、これほど深く堀り下げた演奏を僕は聴いたことがない。しだいに「ちょっと違うぞ」どころの話ではなくなり、「これは大変なものを聴いているのではないか」と思えてきた。そして曲が終わるや否や、場内からは嵐のような拍手が起こった。
 「レオノーレって、こんな名曲だったのか」
  そう思いながら、僕も拍手を送った。

 昨年のリサイタルにつづいて、再び盛岡に来てくださった川久保賜紀をソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲は、ゆっくりぎみのテンポで、しかし決して「まったり」ではなく、軽快であるべきところは軽快に、重厚なところは重厚に、きっちりと仕上げた。
 オーケストラが単なる伴奏ではなく(ブラームスの協奏曲は、独奏者よりもオーケストラのほうが主役になるところが多々あるのだが)、ソリストと一体になって音楽をつくりあげていた。こういう演奏って、ありそうでないです。
 オーケストラの音量がやや大きめにスタートしたので、「これでは川久保さんのヴァイオリンが聴こえないかも」とハラハラしたが、これは素人考えだった。川久保賜紀は名器ストラディヴァリウスを朗々と鳴らして、みごとだった(でも、あれくらいのレベルの方でも音程が危なくなることってあるんですね)。

 そして問題の5番だ。
 何が問題かというと、僕が所属している田園室内合奏団では六月にこれを演奏する(第1楽章だけ)。実はその勉強のために聴きに行ったようなものなのだが。まあ、確かに勉強にはなったけれど、あんまりレベルが違いすぎて、困りました。
 それはそれとして、話を進める。

 ベートーヴェンの交響曲第5番は「運命」という標題が付いている。冒頭の「ジャジャジャジャーン」というモチーフは「運命の扉をノックする情景なのだ」とベートーヴェンが言った、と弟子のシンドラーが記録を残したからだ。ところが、これがどうも眉唾らしく(いい解釈だとは思うが)、欧米では「運命」という表記をしていない。日本だけが「運命」という表記を用いるのは、標題を付けたほうが受けがいいからに他ならない(ヴィヴァルディの「四季」やシューベルトの「鱒」、「死と乙女」など日本人は標題が付いた曲を好む)。

 「運命の扉を叩く音」という文学的な捉え方をした演奏では冒頭の「ジャジャジャジャ〜ン」を大袈裟にやる。これに対して、作曲当時のサウンドを再現するという古楽器的な演奏では実にあっさりと「ジャジャジャジャッン」とやる。改めて言うまでもなく、一般的にイメージされている5番は文学的アプローチのほうですね。
 ルイジはどっちでもない。というか両方のいい面を取り入れていた。過剰に文学的にならず、かといって新即物主義的(ロマンチシズムを排して楽譜の再現に徹する)とも一線を画す。楽譜に忠実でありながら、充分にロマン的な演奏と言ったらいいか。

 このオーケストラは美音で聴かせるタイプではないけれど、各パートの分離がよく、一本一本の糸がくっきりと鮮やかな織物を連想させた。
 各パートを丁寧に聴かせようとしすぎると、ひじょうに疲れる音楽になってしまうのだが、ルイジはその加減がうまいようだ。テクニックと感情のバランスがうまくとれている人なのだという気がする。テンポについても、ゆったりめに演奏したブラースムのヴァイオリン協奏曲とは打って変わって、5番は速めだった。特に第4楽章のアレグロは、これ以上速く弾くのは無理だろうというくらい速く、弓が風を斬る音が聴こえるようだった。
 ファビオ・ルイジから僕はベートーヴェンの新たな魅力を教わった。これからもルイジを聴いていきたいと思う。

 ところで、しばしばお断りしているように僕は音楽の専門教育を受けていません。音楽のことやコンサートで受けた印象、その音楽から考えさせられたことなどを気の向くままに書いているわけで、これは音楽批評でもありません。もともと音楽批評を書く気もないわけでして。
 そもそも「交響曲があまり好きではない」などという男にクラシックを語る資格があるとは思えません。はい、そうなんです、僕は交響曲が苦手です。さらに、ベートーヴェンの交響曲となるとこれはもうなるべく聴きたくないという感じ。なぜなら、重くて大袈裟すぎるから。ベートーヴェンの交響曲に限らず、僕の生活に重いもの、大袈裟なものはあんまり必要ない。
 とはいえ、ベートーヴェンが残した膨大で充実した室内楽曲(ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、弦楽四重奏曲)は僕にとって生きる糧だ。
 大急ぎで再びお断りしておくが、室内楽は決して軽い音楽ではない。交響曲に比べたら編成は小さく、音も小さく、音色や音の幅も限られるものの、だからといって音楽の中身が軽いということにはならない。むしろ、弦楽四重奏曲などは交響曲よりも深みがあると言ってもいいだろう。

 ところが、室内楽を聴く人はもともと少ないうえにどんどん減っていて、コンサートの数も少ない(悪循環なんです)。盛岡のような地方都市ではピアノかヴァイオリンのリサイタルが、かろうじて年に1度か2度ひらかれるだけで、 弦楽四重奏のコンサートなどは望むべくもない。
 交響曲を楽しむには弦楽四重奏で耳を鍛えておくのも大切だと思うのだが。

◆このごろの斎藤純

〇クラシックギターの専門誌『現代ギター』に昨年のコンサートの収穫を総括した記事があり、高田元太郎さんのコンサートが高く評価されていた。旬のギタリストの演奏を生で聴けた幸運を改めて噛みしめている(バックナンバー第64回参照)。
〇春間近と油断したとたんに大雪に見舞われたが、いよいよというかようやくというか春めいてきた。我々オートバイ乗りにとっては本当に心待ちにしていた季節がやってくる(花粉症シーズンの到来でもあるけれど)。
〇2年半前に上梓したエッセイ集『ツーリング・ライフ』(春秋社)が新装増補版として重版になった。盛岡に帰ってきてからのツーリングについて加えたので47ページ増え、カバーも新しくなった。この種の本がなかなか売れない時代なので本当に嬉しい。ぜひ、たくさんの方にお手にとっていただきたいと思っています。

ペペ・ロメロのギターを聴きながら