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◆第95回 GWのおすすめは「ラ・トゥール」展(18.april.2005)

 フェルメール(1632-75)は今では知らない人がいないほど有名だ。フェルメールに関するエピソード−−19世紀に再発見されるまで長く忘れられていたことや、真作と認められている作品が30数点(いろんな説があり、紹介している本によって数が違う)しかない−−もよく知れわたっている。
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)とフェルメールには共通点がある。
 まず、ラ・トゥールはフェルメールとほぼ同時期に活躍していたこと。その後、20世紀になって再発見されたこと。そして、フェルメール同様に真作とされる作品が40点あまりと少ないこと(これは今後、増える可能性もある)。
 しかし、何よりも大きな共通点は、比類のない力量を持った(しかも、模写作品の多さから、現役当時はかなり評価の高かった画家だったはずの)この画家が、なぜか美術史からすっぽりと抜け落ちていた(忘れ去られていた)という点だろう。

 本展覧会の概要は下記の〈ご案内〉をご覧いただくとして(上野の国立西洋美術館で開催されるに至った経緯などが興味深い) 簡単に印象を記しておきます。

 「光と闇の世界」というサブタイトルが付けられている。闇の画家といえばレンブラントを思い浮かべるけど、レンブラントの闇は舞台のような感じなんですよね。ある意味で「つくりもの」めいている。フェルメールも光を強く意識させる作品で知られているが、フェルメールのそれは窓から差し込む自然光だ(フェルメールの凄さはそこにあるわけで)。
 ラ・トゥールの光は、たとえば一本のローソクであることが多い。ラ・トゥールは小さなローソクの明かりがつくる明暗でもって、人間の深い感情表現を実現している。「最小限の光による最大限と効果」といっておこう。

 17世紀の絵画だから、キリスト教(聖書)に題材を求めた宗教画が多い。が、宗教的な知識のない僕でも描かれた聖人の姿には心が動かされる。
 描かれた場面は決して大袈裟でも、ことさら劇的でもない。むしろ、我々がそこから受け取るのは静謐さである。だからこそ、我々はそこで立ち止まり、考える。ラ・トゥールは「絵にすべてを語らせる」よりも観る側に「考えさせる」ように絵を描いたのではないか。
 「蚤をとる女」や「ダイヤのエースも持ついかさま師」のように、聖書から離れた題材で、見たままを味わえる世俗画も面白い。

 というわけで、この展覧会は三つの楽しみ方ができる。
〇宗教画(小物のひとつひとつに意味がある。文字を読めない人が多かった当時、絵が聖書の役割を果たした)
〇ラ・トゥール再発見のプロセス(下記、ご案内を参照ください)
〇絵そのものの美しさ、訴える力に酔う

 ここまで書いてきて、「なぜ僕は絵を観るのだろうか」という問いが沸き起こってきた。これは避けては通れない問いなので、ちょっとだけ触れておこう。

 まず、一般的に絵を観る際は「何が描かれているか」を観る。この問いに満足な答えを出せないため、「抽象画は嫌い」という人が少なくない。
 次に「どのように描かれているか」を観る。同じ風景画でも、印象派登場以前と以降では描き方が違う。また、キュビスムやフォービスムなどのジャンルでは「何が」と「どのように」が大きく重なってくる。
 以上の2点を踏まえたうえで最も肝心なのは、絵を観ることで「それが自分に何をもたらすか」ということにある。
 果たして、絵は僕に何をもたらすか。

 「快楽」と今は答えておこう。絵を観ることには他では得られない快楽がある。もう少し付け加えるなら、その「快楽」とは、自分のなかに眠っていた何ものかが呼び覚まされる感覚である。

 ところで、フェルメールやラ・トゥールのように「なぜか忘れさられていた芸術家」は音楽の世界にもいた。それは(なんと!)バッハです。
 我々は「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス」をクラシック音楽史の3Bなどというけれど、バッハは死後、長い間、忘れさられていた。バッハ復活は19世紀にメンデルスゾーンらによってなされた。

 バッハ復活は20世紀になってもつづいた。ストラヴィンスキーやシェーンベルクら(前衛的な)作曲家もバッハの見直しを主張した。また、練習曲と軽視されていたチェロ組曲をコンサート・プログラムの地位に(というよりもチェリストの試金石にまで)高めたのはパブロ・カザルスだし、これまた「子供の弾く曲」という扱いを受けていたゴルトベルク変奏曲をコンサート・プログラムの地位に引き上げたのはグレン・グールドだった。
 バッハ作曲当時の演奏を再現する古楽器奏者の試みもますます盛んになってきているから、バッハの作品の掘り起こし作業は今後もつづくと言っていいかもしれない。

 前回、リュリの音楽を聴いたわけだが、東京文化会館の向かいにある国立西洋美術館で今回紹介する「ラ・トゥール」展を見た。ラ・トゥールもリュリとほぼ同じ時期に活躍した画家なので、コンサートは三位一体(第94回をご参照ください)だったが、僕はこの展覧会も合わせて四位一体の芸術空間を満喫したことになる。

 愛知万博の入場者数が伸び悩んでいるようだが、見通しが甘かったのではないかと(誰もが)思っている。そもそも、もはや万博の時代ではない。ああいう時代遅れな公共事業(なんですよ、実際)を最先端と勘違いしているのだから困る。
 愛知万博は開催期間が終われば速やかに忘却の彼方へと追いやられるのは明白だが、「ラ・トゥール」展は後々連綿と語り継がれていくだろう。つまり、「ラ・トゥール」展をご覧になった方は確実に「証言者」の資格を得るが、愛知万博は単なる消費活動のひとつに飲み込まれるだけで終わる。

〈ご案内〉
「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール − 光と闇の世界」展
国立西洋美術館(東京上野公園)
会期:2005年3月8日(火)〜5月29日(日)
開館時間:午前9時30分〜午後5時30分(金曜日は午後8時)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(ただし、5月2日は開館)

 17世紀フランスの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593−1652年)の名は、すでに世界的であるにもかかわらず、奇妙なことに我が国では未だに多くの人に知られているとは言えません。しかし、一度その作品を見た人にとっては、ラ・トゥールの絵は忘れがたい印象をもたらすでしょう。

 昼の光の中であれ、夜の情景であれ、常に光のもたらす効果に鋭敏な感受性を見せるその画面は静けさと深い精神性に満ち、表された人物像は光と闇の対比の中に的確な色彩のヴァルールを繰り広げて、きわめて近代的な造形を見せています。ことに、蝋燭の光の効果を駆使した幾つかの作品では、まさに他の追随を許さないこの画家独自の表現世界が構築され、その世界的な名声の源となりました。
 他方でこの画家は、戦乱の打ち続くフランス東部のロレーヌ地方を中心に製作した後、没後は急速に忘れ去られ、20世紀になって劇的な形で再発見されたという不思議な経緯を通じても知られています。現在まで残る真作はおよそ40点に満たず、他は失われたか模作などを通してのみ知られるのみなのです。そのドラマティックな再発見の物語と、作品の寡黙で詩的特質や希少性、ヴェールに包まれた画家自身の存在にまつわる謎などから、しばしばオランダの画家フェルメールに比較されるのは理由の無いことではありません。

 2003年度、国立西洋美術館はこのラ・トゥールの希少な作品の1点「聖トマス」(1624年頃)を購入する機会に恵まれました。ルーヴル美術館などを除けば、世界の主要な美術館でも、ラ・トゥールの真作を所蔵するところは稀です。そしてこの作品を一般に広く公開しお披露目する貴重な機会を捉えて、ラ・トゥールの輝かしい作品世界をできる限り多くの日本の方に見ていただきたいと考え、今回の企画は立てられました。

 現在まで残る真作はおよそ40点程に過ぎず、そのほぼ半数と、若干の失われた原作の模作・関連作を含め、計30数点のきわめて貴重な作品群が東京に顔を揃えることとなりました。
 日本で初の、そしておそらくは相当な長い将来に渡って再び見ることはないであろうラ・トゥールの展覧会を、この機会に鑑賞いただきたいと切に願っています。

◆このごろの斎藤純

〇だいぶ前から予防策を講じていたにもかかわらず、やはり花粉症に悩まされることになった。ところで、花粉症って日本だけの「風土病」なんでしょうか。外国ではどうなのかな。
〇二戸のプラム工芸が製作・販売している木製カッター(ハンドルに斧折樺という木が使われている)を入手した。カッターナイフは機能一点張りのデザインが厭だった(便利だけど)。これは見た目ばかりじゃなく、握った感触もよく、とても気にいった。長く使うことになるだろう。

ラスト・レコーディング/アッティラ・ゾラーを聴きながら