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◆第99回 指揮者のいない小さなオーケストラ (13.june.2005)

オルフェウス室内管弦楽団コンサート
2005年5月31日 盛岡市民文化ホール(マリオス)大ホール

 いつだったか、「指揮者なしでオーケストラは演奏できるか」という実験をテレビでやってみせていた。結果は、音楽がはじまらなかった。指揮者が指示しないかぎり、オーケストラは音を出せないからだ。
 まあ、しかし、これは半分事実で半分冗談だと思う。指揮者よりもコンサートマスターがリードするオーケストラも実際にあるのだから。

 オルフェウス室内管弦楽団は30数名からなる小規模編成のオーケストラ(N響やウィーン・フィルなどのフルオーケストラの3分の1くらいか)で、指揮者を置かないことが特徴だ。
 僕はオルフェウスのファンでCDを何枚か持っているが、生を聴くのは初めてで、去年から期待していたコンサートのひとつだった。 演奏曲目は下記のとおり。

〈第1部〉
@ シベリウス:組曲「ペレアスとメリザンド」Op.46
A プロコフィエフ:交響曲 第1番 ニ長調「古典交響曲」Op.25

〈第2部〉
B ベートヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.61
  ヴァイオリン独奏/ジョシュア・ベル

〈アンコール〉
C クライスラー:愛の悲しみ               
D バルトーク:ルーマニア民族舞曲

 ヴァイオリン・セクションに「クリスチーナ&ローラ」というデュオでも活躍しているローラ・フラウチ(この人はハーバードで応用数学を学んだ後にジュリアードで学んだ才媛)が入っていたので驚いた。さすがにニューヨークの楽団だ。

 曲ごとにメンバーが席を移動するのが面白かった。曲ごとにリーダーが代わるのである。これも指揮者のいないオルフェウスならではの特徴だ。
 指揮者がいれば「こうしてください」と指示が下される。つまり、オーケストラは指揮者が「つくりたい響き」を出す楽器の役割を果たす。オルフェウスの場合はメンバーが意見をだしあって音楽をつくっていく。この手法は弦楽四重奏と同じだ。が、わずか4人で音楽をつくる弦楽四重奏のようにはいかず、もちろん時間もかかる。
 僕は田園室内合奏団に入るまで「指揮者がいなくても演奏には支障がないはず」と思っていた。ところが、いざ指揮者のいる楽団での演奏に慣れてしまうと、指揮者のいない演奏がいかに大変なことかとわかるようになった。指揮者がいるほうが演奏する立場としては(一般的には)楽なのだ。

 指揮者がいない、という先入観のせいかもしれないが、緊張感のある演奏だった。それは決して、堅苦しい緊張感ではない。音楽に対する集中力と言い換えてもいいかもしれない。
 そして、実に洗練された響きを出す。いい悪いはこの際別にするとして、土臭さのまったく感じられない演奏なのだ。こういう響きも一種の美徳といっていい。
 オルフェウスで「古典交響曲」(プロコフィエフはハイドンを手本につくったそうだが、僕はモーツァルトを連想した)を聴くことができたことは一生の宝になるだろう。シベリウスもきれいな音楽だった。

 スペースがないので、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲についてだけ触れておく。
 これほどみごとに独奏とオーケストラが溶け合った協奏曲を僕は初めて聴いた。小編成であることと指揮者を置かないことがその「溶け合った響き」をつくるのだろう。ジョシュア・ベルが演奏しながらリードするさまも見ていて気持ちがよかった。ジョシュア・ベルはとても柔らかい音を出す(ギドン・クレーメルと対照的な存在かもしれない)。

 今日は「聴き手」も素晴らしかった。いや、今日ばかりではなく、市民文化ホールの聴衆は他と比べてもかなりレベルが高いのではないか、と思う。特に今回のようにクラシックファン以外にはあまり知られていない音楽家のコンサートのときにそれが強く感じられる。
 今日の熱演に送られた「意味のある」拍手は、オルフェウス室内管弦楽団の面々やジョシュア・ベルにも当然、通じたに違いない。
 「いい聴き手がいないと演奏家は育たない」とは津軽三味線の巨匠高橋竹山が残した言葉のひとつだ。
 竹山は1970年代に労音主催のコンサートで全国各地で演奏をした。それまで竹山が出演してきた民謡ショーに集まる客層とはまったく異なる聴衆との出会いだった。これが「音楽家」竹山誕生の契機となった。
 クラシックコンサートのことを書く場に竹山を持ち出したりしては顰蹙を買うおそれもあるが、竹山はモーツァルトやフラメンコなど世界中の音楽をしっかりと聴いた人でもあった。それが「三味線の勉強に役立つ」と信じていたからだ。

 「いい聴き手がいないと演奏家は育たない」は「いい聴き手を育てなければ演奏家も育たない」と同じ意味だ。クラシックコンサート界は今、「いい聴き手」をいかにして育てるかという大きなテーマを抱えている。ヨーヨー・マや小澤征爾など「テレビで名が売れている」音楽家のコンサートは満員になるが、そうではないコンサートは(東京でも)集客に苦戦している。
 従来通りのコンサート運営のままでは「いい聴き手」を育てることができない。最近の現状はそう警告を発しているように思う。

 その警告に耳を傾けた新たな試みが東京では行なわれている。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭2005などもそのひとつだ。この種の試みが地方にも波及していくことが大切だ。

◆このごろの斎藤純

〇来月出る「モナリザの微笑」(光文社文庫)の準備に追われている。文庫化の際に僕はつい手を入れすぎてしまいがちで、先輩作家からも「悪あがき」といわれる。「そのエネルギーを新作に向けろ」ということなのだ。今回は新作の書き下ろしも進めている最中でもあるので時間的に厳しく、文庫では最小限の訂正・補足にとどめることになりそうだ。
〇そんな中、「地球温暖化対策シンポジウム」のコーディネイターとして準備に関わり、大変な思いをした。京都議定書発効にともない、我々ひとりひとりが温暖化ガスの削減義務に取り組まなければならなくなった。なんだか難しそうな話なので敬遠されがちだが、日常のほんの少しの工夫で実現ができる。ぜひ楽しみながら、新しい発送で日々を過ごしていただきたい。そんな提案をこのシンポジウムではする予定だ。
〇従来の堅苦しいシンポジウムではなく、誰もが気軽に参加できるイベントとなっている。ミニコンサートを楽しんでいるうちに、温暖化防止対策の知識が身につくと思う。自転車ツーキニストの疋田智さんのトークも楽しみだ。
〇お気づきのようにトップのポートレートが変わりました。いつも一緒に旅をしている小原信好さん(写真家・盛岡市)に、湯田温泉郷湯川温泉で撮っていただきました。

伊福部昭ギター作品集を聴きながら