世紀末ロシアの大富豪セルゲイ・イワノヴィッチ・シチューキン(1854-1936)とイワン・アブラモヴィッチ・モロゾフ(1871-1921)が収集した印象派などのフランス美術コレクションは、質・量ともに本国フランスのコレクションを凌ぐものだった。
そのコレクションは革命によって国家に没収され、紆余曲折を経て、プーシキン美術館(旧モスクワ美術館。プーシキン生誕100年の際に名称変更)とエルミタージュ美術館に分割所蔵された。そして、これらは第二次大戦後になってようやく公開された。
美術コレクションはこのように必ず人間のドラマ(政治もかかわる)が秘められている。私たちは「画家のドラマ」にばかり興味を持ってしまうが、コレクターのドラマも充分におもしろいし、研究に値する。
企業ならびに企業家(あるいは成り金、にわか資産家)が美術品を買い集めた、という点では20年近く前の日本もそうだった。
バブル期に日本にはたくさんの印象派絵画が入ってきた(つまり、企業や成り金によって買われた)が、ごく稀な例を除いて、その多くは世界の美術館が見向きもしなかったレベルの作品だった。
もはや一級品は美術館に収まっているので、そう簡単に入手できるものではない。そんなのは自明の事実なのに、欲に目がくらんだ(というか、もともと美術への見識などなかった)連中が相場の何十倍もの価格で、それらを買い集めた(もちろん、なかには一級品もあった)。
結局、それらの多くは「借金の返済金代わり」に金融機関に没収されたり、あるいは元の正しい価格(つまり、買ったときの数十分の一の価格)で取り引きされている。
前置きが長くなってしまったが、プーシキン美術館展で見られる印象派とそれ以降の絵画の数々は、上記のような喜劇(悲劇というべきか)とはもちろん無縁です。
私はオルセー美術館をはじめとするパリ市内の各美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館とワシントン、フィラデルフィアの美術館、バーンズ・コレクションで印象派を観ている。シチューキン/
モロゾフ・コレクションは、これらの美術館と肩を並べる内容であり、その質の高さに驚いた。
シチューキンやモロゾフが収集した時期(19世紀末から1920年代、第一次世界大戦まで)は、印象派がようやく認められゴーギャンやセザンヌが評価され始めたころで、フォーヴィスムやキュビスムはまだまだ認知されていなかった。そんな時代に「これはいい」と買い集めたわけだから、優れた感覚の持ち主であり、また自分の美学に自信も持っていた。同時代の作品について「賞をもらった」とか「名前が売れている」ということでしか評価できない凡人とはそこが違う。
そして、その「審美眼」が確かだったことは、後の美術史が証明することになる(なお、19世紀初頭、日本にも印象派のコレクターがいた。大原美術館をつくる大原孫三郎と、松方幸次郎である。松方コレクションは国立西洋美術館の基礎となった)。
バーンズ・コレクションもそうだが、プーシキン美術館に収められたシチューキン/モロゾフ・コレクションは収集家の「好み(審美眼)」がはっきりしているので、その個性を味わうという楽しみもある。
印象派とそれ以降の絵画には、私たち観るものの心を解放するパワーがあると思う。それは、ひとにぎりの特権階級のための美術から、一般大衆のための美術に大転換したことからくるのだろうか。教会や王侯貴族から与えられたテーマで描くことを強いられてきた画家たちが、その時代になって自ら選んだテーマで描く自由を得た。その喜びが、作品から伝わってくる。印象派を観るということは、画家と喜びを分かち合うことでもあるような気がする。
この喜びは、人づきあいやら仕事やらで溜まっていた心の垢を落としてくれるし、うまくいかないことがつづいて陰っていた私の心を明るくしてくれた。
5月の「ラ・トゥール展」と共に今年最も心ときめく展覧会だった。 |