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◆第121回 パリを魅了した異邦人(17.april.2006)

『藤田嗣治展』2006年3月28日-5月21日 東京都国立近代美術館

 今年は藤田嗣治の生誕120年にあたる。藤田ほどの大画家ならば、大きな展覧会が何度か(たとえば生誕100年などに)行なわれていてもよさそうなものなのに、同展ほどの規模のものは、藤田が没して38年目にして初めてだという。

 これまで一度も展覧会などに足を運んだことがない人でも、同展は充分に楽しめる。そのうえ、「絵を観ることがこんなに楽しいなら」とほかの展覧会にも興味を示すきっかけを与えてくれるだろう。実際、藤田の絵ほど多くの人(美術に関心のない人から専門家まで)に好まれている例は稀れだ。

 しかし、いつの時代もそうだったわけではない。藤田の芸術に圧倒されつつ、いつもどこか批判してきたのが日本の美術界だった。ま、簡単にいうなら「出る杭は打たれる」の典型が、藤田と日本の美術界のあいだには見られる。

 藤田はパリで最初に認められた日本人画家だった。パリで認められたということは、とりもなおさず、世界に認められたことを意味した。
 ところが、オカッパ頭にして(これは現代でもかなり目立つだろう)、パリのキャバレーで遊ぶ藤田のライフスタイル(ファッション)は、当時の日本人には受け入れられなかった。そして、画家藤田の名が世界で高まると共に、日本での風当たりは強くなっていく。そういう声をリードしたのは、嫉妬の炎を燃やした同業者たちだった。

 という具合に絵とは関係のない話になってしまったが、藤田と日本美術界は「作品以外」のことで当初からこじれていた。さらにそれを決定的にしたのが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中の藤田の活動だった。つまり、パリから帰国した藤田は軍部の依頼に応じて、聖戦絵画(戦争記録画)を描き、そのリーダー的な役割を果たした。

 戦後、聖戦絵画はアメリカに没収された。その際、アメリカ軍の係官が藤田の絵を見て、「反戦絵画かと思った」という感想を洩らしたそうだ。ぼくもそう感じる。ただし、これは藤田が反戦の思いで描いたという結論と結びつくものではない。
 その後、聖戦絵画は「永久貸与」という形で日本に返還され、国立近代美術館が管理している。今なお公開を拒んでいる遺族もおり、聖戦絵画はなかなか研究が進まない。
 同展では藤田の聖戦絵画が5枚展示されている。それらについては鑑賞者がそれぞれ感想を持つだろう。

 藤田は聖戦絵画を描いたリーダー(あるいは、描かせたリーダー)として戦後にバッシングを受ける。アメリカからバッシングされたのではない。日本人から(それも同業者から)バッシングされたのだ。
 結局、藤田はパリに戻り、日本国籍を捨て、フランス人として世を去った。

 しかし、冒頭に記したように、こういう予備知識など藤田の絵を観るうえでは必要ない。ぼくは戦後のレオナール(洗礼を受けて改名した)となってからの藤田の絵にはあまり興味を持てないが、戦前の裸婦像(乳白色の肌と面相筆による繊細な輪郭線)や猫(藤田の絵にはしばしば猫が登場する)が好きだ。ただただうっとりしてしまう。

 アトリエや静物も藤田は独特だ。遠近法をわざとを無視し、空間的な歪みをつくって、静物に動きを持たせる。ひとつひとつの品への愛着がこちらにも伝わってくる。藤田にとっては、人間も猫もペンもそこらのガラクタも等しい価値を持っているのだ。

 藤田は身のまわりのもの(食器など)にも絵を描き、それを使っている。壁も自分の絵で飾った。画家にとって自分の絵は鏡のようなものに違いない。藤田はそんな強烈な自己愛の持ち主だった。

 同展には秋田市の平野政吉美術館が所蔵する作品もいくつか展示されていた。さすがに質が高い。秋田の豪商平野政吉と藤田嗣治の話も面白いのだが、ここでは触れるスペースがない。
 東京の同展まで行くのは無理な方でも、秋田市の平野政吉美術館なら行けるのではないだろうか。藤田にとって最大の壁画だけでも一見の価値がある。

 ところで、今年はセザンヌ没後100年でもある。セザンヌ生誕地の南仏プロヴァンスでは、大規模な展覧会がひらかれる。行きたいなあ。

◆このごろの斎藤純

〇ようやくツーリングシーズン幕開けだというのに今年はまだ一度もオートバイに跨がっていない。〆切に追われて、嬉しい悲鳴をあげている(忙しいのになぜかちっともお金にならないので文字通り悲鳴をあげています)。
〇花粉症の症状のあらわれ方が変わってきた。以前は外出した日の就寝前の鼻水に悩まされたが、今年は外出したとたんに鼻水、くしゃみに見舞われる。反応が速くなったわけだ。

キャラバンサライ:サンタナを聴きながら