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◆第122回 プラド美術館展の1時間(1.may.2006)

プラド美術館展 〜スペインの誇り 巨匠たちの殿堂〜
東京都美術館 2006年3月25日-6月30日

 200年近い歴史を持つプラド美術館は、スペイン美術の殿堂であるばかりではない。ここだけでヨーロッパ美術史を一望できる。なにしろ、15世紀以降、地球上の全域にわたって植民地を拡大していったスペイン王国の富の象徴だ。生半可ではない。12世紀から20世紀初頭にかけてのスペインおよびヨーロッパの絵画が7,876点、さまざな時代と地域の素描と版画がそれぞれ6,403点と2,446点、古代エジプト、ギリシア・ローマからこんにちまでの彫刻が942点、家具や磁器などの装飾美術品が853点、さらに貴重な図書、書簡など文書類、コイン、メダル、宝石類などを所蔵しており、「西洋美術をちゃんと学ぼうと思ったら、プラド美術館には必ず行かなければならない」といわれているくらいだ。

 プラド美術館は、死ぬ前にぜひとも行ってみたい場所のひとつだ(30代のころからそう思い、まだまだ時間があるようなつもりでいたが、いつの間にか残り少なくなっている。こんなふうに、かなわない夢だけが増えていくんですね)。そのプラド美術館が史上最大の増改築を行なうことになったので、今回の展覧会が実現した。52作家の油彩画81点だから、ごくごくほんの一部にすぎない。それでも、もちろん行く価値は充分すぎるほどにある。

 展示作品のうち半数以上が、宗教画だった。18世紀以前のオールドマスター中心の作品だから当然なのだが、これが厄介だ。なぜなら、ぼくは聖書の知識がほとんどない。だから、宗教画を造形の美しさだけで観ることしかできない。つまり、絵にこめられた意味を理解できずに、上辺だけを観ているにすぎない(もちろん、簡単な解説が添えてあるが、それを読んだからといって理解したことにはならない)。
 それでも、観ていて飽きない。やっぱり、絵や音楽は理屈じゃない部分も大きいんだな、と思う。

 と言いつつ、少し理屈を書く。
 はじめスペイン美術は迫りくるイスラム教を相手に、次いでプロテスタントを相手に闘った宗教闘争の象徴でもある。そのせいか「抹香臭い」。神吉敬三が『プラドで見た夢』(中公文庫)でそう言ってるのだが、キリスト教(聖書)の素養のないぼくが見てもそう感じる。ヨーロッパのなかでもスペイン美術はその抹香臭さゆえに人気がなかったのだという。

 ただし、例外はベラスケスとゴヤだ。今回ベラスケスは来ていないが、ゴヤが6点来ている(ちなみにプラド美術館にはゴヤの油彩画だけで150点あるそうです!)。〈果実を採る子供たち〉と〈魔女の飛翔〉の前から、しばし離れることができなかった。しかし、この6点では多彩だったゴヤの一面(主に肖像画)しか知ることができず、もどかしい思いをさせられる。今回の展示では、ゴヤの官能性が体験できないのも残念だ。
「やっぱりプラド美術館に行くしかないのか」ということになる(この展覧会はそういうプロモーションの役割も果たしているから、効果的といえば効果的だ)。

 ゴヤを観ながら、ゴヤを主人公にした映画を思いだしていた(タイトルは失念)。冒頭、伯爵夫人と王女だかがフラメンコを踊るシーンがあった。あのシーンは素晴らしかった。映画では、ゴヤが画家として以外の熱い寵愛を受けていたように描かれていたが、実際にそうだったのだろうか。

 なお、今回のタイトルはエウヘーニオ・ドールスの名著『プラド美術館の3時間』(ちくま学芸文庫)のパロディです(説明の必要はないと思いますが、念のため)。

◆このごろの斎藤純

〇北東北3県向けの月刊誌『ラクラ』が創刊された。これに椎名誠さんとぼくが旅のエッセイを書いている。椎名さんは得意の写真を、ぼくはヘボな水彩画を披露しているので、手にとってごらんください。コンビニと書店で販売中です。また、仙台の書店でも手に入ります。420円です。

マニタス・デ・プラタを聴きながら