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◆第150回 11本のストラディヴァリウスを聴く(28.may.2007)

ストラディヴァリウス サミットコンサート2007
2007年5月24日(木) 18:30開演
盛岡市民文化ホール大ホール

 イタリアはクレモナの名匠アントニオ・ストラディヴァリの手になる楽器をストラディヴァリウス(縮めてストラドとも)という。ストラディヴァリは92歳と長寿だったうえに、死の直前まで精力的に楽器をつくった。ヴァイオリン2050台、ヴィオラ300台、チェロ250台、コントラアルト100台、コントラバス20台、バロックギター10台にもなる。このうちヴァイオリンは600本あまりが現存しているそうだ。芸術の場にお金のことを持ち出すのをぼくは好まないが、1億円を下るものはない。

 そのストラドが11台も一堂に会し、ベルリン・フィルのメンバーが演奏するのだから、クラシックファンじゃなくても興味を抱くに違いない。
 まず、曲目をご覧ください。


 〈第1部〉
[1]モーツァルト:ディヴェルティメント へ長調 K.138
[2]J.S.バッハ:ハープシコードのための協奏曲 第5番 へ短調 BWV1057
[3]レスピーギ:古風な舞曲とアリア 第3番

 〈第2部〉
[4]ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「和声と創意の試み」より「四季」 Op.8

〈アンコール〉
[5]チャイコフスキー:弦楽のためのセレナード ハ長調 Op.48から第2楽章
[6]モーツァルト:アイネクライネ・ナハト・ムジークから第1楽章
[7]バルトーク:ルーマニア民俗舞曲
[8]ドヴォルザーク:弦楽のためのセレナード ホ長調 Op.22から第1楽章

 ぼくも当然、ストラドがこれだけ集まったらどんなことになるのか、それを聴きに行った。さらに付け加えると、この日は世界に十台しか残っていないストラディヴァリウスのヴィオラが2台も揃うという。ぼくはヴィオラを弾いているものだから、こんなめったにない機会を逃してなるものか、と興奮を隠しきれず、座席についた。
 最初の2曲は「あれ、こんなものかな」と拍子抜けするような感じがした。特に[2]はチェンバロ(ハープシコード)の音量に合わせたせいか、全体の音量を低く抑えているように感じられた。
 それが[3]でいっきにはじけた。
 この曲を聴いているとき、もうぼくの頭からはストラドのことなどは消えていた。
 [4]ではソリストが4人交代したので、それぞれの楽器の響きを比較することになったが、それも結局は楽器の個性というよりも演奏家の個性に引きつけられ、ストラドであろうとなかろうとそんなことはどうでもよくなっていた。

 あるいは、ベルリン・フィルのメンバーはこのコンサートで、そのことを我々に伝えようとしたのではないだろうか。つまり、音楽は楽器が奏でるのではなく、人間(演奏家)が奏でるのだということを。

 ちなみに「美音」で知られるウィーン・フィルは、楽団が所有する楽器を配って演奏している。それは決してストラドのような超高級品ではない。ある楽団がウィーン・フィルのようなサウンドを求めて、ウィーン・フィルと同じメーカーの楽器で統一したが、ウィーン・フィルと同じサウンドは得られなかった。
 そういうものだ。

 盛岡の聴衆も、当然のことながら、時価総額ン10億円というストラドに対してではなく、素晴らしい音楽を聴かせてくれた13名のメンバーに熱い拍手を延々と送りつづけたのである。

 このコンサートで、ぼくはベルリン・フィルならではのグルーヴ感を感じた。グルーヴ感は黒人(系)音楽に使われる言葉で、リズム感やスピード感などを総合した感覚だ。クラシックなどヨーロッパ音楽にも独特のリズム感やスピード感がある。ぼくはそれもグルーヴ感だと思っている。もちろん誰の演奏にもグルーヴ感はあると思うのだが、これほど濃厚にヨーロッパのグルーヴ感を感じさせる演奏はあまりない。 ベルリン・フィルの秘密に触れることができたような気がした。

 我々の拍手に応え、アンコールでは日本語で「盛岡の空気は透明で新鮮でまるでモーツァルトの音楽のようだ」と[6]を紹介するなど、客席を沸かせた。それにしても、こんなにアンコール曲を演奏してくれるとは!

 これは雑談だが、ピチカートの響きがずいぶんよかったことが印象に残った。

◆このごろの斎藤純

○今月末に、所属する田園フィルの定期演奏会があるので、その特訓に入った。弾けないところがまだたくさんある。こんなことで本番に間に合うだろうか。
○冬枯れから初夏に移り変わる直前の「芽吹きの山」が好きなのだが、今年はその期間がことのほか短くて、ちょっと寂しかった。

プレス・オン/デヴィット・T・ウォーカーを聴きながら