さすがピカソの人気は凄い。連日大賑わいの岩手県立美術館である。週末はレストランに長蛇の列ができている(ピカソ展に合わせた特別メニューが人気)。当然といえば当然なのかもしれないが、ピカソはなぜか日本での人気が特に高いような気がする。
ピカソと並んで、日本で人気が高いのがゴッホだ。実は今展覧会を見ながら、ゴッホを連想していた。
もちろん、作風はまったく異なる。しかも、存命中は一枚しか売れなかった(それも身内に)ゴッホと違い、ピカソは歴史に残る巨匠として崇め奉られて生きた。
そんな対照的なピカソとゴッホだが、エネルギーというのか、情念というのか、創作の根底に共通するものを感じたのだ。
ゴッホの絵は強い。それは強烈な自我の反映だ。あまりに強い絵なので、ゴッホを長く観ているとつらくなる。それは自画像だろうとヒマワリだろうと黄色い部屋だろうと田園風景だろうと糸杉だろうと同じだ。ぼくはゴッホを穏やかな気持ちで眺めていられるほどの包容力は持ってないし、タフでもない。
ゴッホに対するそんな思いに似たものを、今回、ピカソにも感じた。ピカソはあちこちでずいぶん観ているが、こんなことは初めてだった。
ひとことで言うなら、ピカソのはらわたを見せつけられているような気がしたのだ。
ぼくは緊張し、会場をひとまわりするころには若干疲れた。
ルートヴィッヒ・コレクションは晩年の作品に重点が置かれている。それが理由かもしれない。改めて考えてみると、たくさん観ているつもりでいて、実は晩年の作品はあまり観てこなかったのかもしれない(あるいは、直観的に避けてきたとも考えられるが)。
もうひとつ、ピカソというとスタイルの変遷に目を奪われがちだったきらいがある。今回はもっと別な視点からピカソを観る機会が与えられたようだ。
具体的に言うなら、それは繰り返される「馬」と「牛」のモチーフ、そして連作にあらわれる「ミノタウロス」が鍵だ。
ピカソから哀しみ、怒り、孤独、欲望などを読み取ることは難しくない。問題なのは、成功してもなお怒りを持ちつづけた背景であり、あれだけ華やかな人生を送りながらも感じていた深い孤独の正体だと思う。
これからは、これらのことを頭に入れながら、ピカソを観ていこうと思う。今はただ、ピカソは本能に従い、本能と寄り添い、それを自分の芸術にした男だ、とだけ記しておく。
6月16日(土)午後2時から、逢坂剛さんの講演があった。逢坂さんはスペインものの小説をたくさん書かれている(ほかにも西部劇、ハードボイルド、時代ものと芸域が広い)。
逢坂さん流の「ゲルニカ解釈」(ひいてはピカソ解釈)はとても興味深く、説得力があった。また、ご自身とスペインとのかかわりも笑いあり涙ありで、一時間半を有意義に楽しく過ごすことができた。
「みちのく国際ミステリー映画祭に4回来て、盛岡は文化のレベルが高い土地だと感じた」とおっしゃっていた逢坂さん、満員の聴衆の反応に満足そうだった。
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