| 盛岡啄木・賢治青春館は弦楽器の響きがとてもいい(第144回参照)。ここにピアノがあれば、音楽活動がぐんと広がるだろうと前々から言われていた。
今年、盛岡在住のピアニスト/作曲家の長谷川恭一さんからアップライト・ピアノが寄贈された。これによって、青春館の音楽活動は大きく広がった。
赤坂智子ヴィオラ・リサイタルもピアノが入ったことによって実現した夢のコンサートである。
<演奏曲目>
[プレ演奏会]
〈1〉テレマン: ヴィオラ協奏曲
[第1部]
〈2〉シューマン: おとぎの絵本
〈3〉ショスタコービッチ: ヴィオラとピアノのためのソナタ Op. 147
[第2部]
〈4〉バッハ: 無伴奏チェロ組曲第4番
〈5〉ブラームス: ピアノとヴィオラのためのソナタ第1番 Op.120-1
[アンコール]
〈6〉武満徹: 鳥が道に降りてきた
〈7〉アイルランド民謡/クライスラー編曲 ロンデンデリー
ヴィオラ:赤坂智子(ミュンヘン国際コンクール第3位)
ピアノ:野田清隆(日本音楽コンクール第1位)
リサイタルに先だって、地元の演奏家と〈1〉が演奏された。赤坂さんは2002年に小澤征爾・ロストロポーヴィチ・コンサートキャラバンに参加していた(第31回参照)そのときのサポートメンバーとの再会を記念しての演奏と言っていい。
しかし、単なるご挨拶という演奏ではなかった。メンバーをぐいぐいリードし、彼らの力を引き出していく様はぞくぞくするほど素晴らしかった。
コンサートの醍醐味は、このように音楽が生まれる現場に立ち会えることある。
続くリサイタルも渾身の演奏だった。なにしろ、ショスタコーヴィチとブラームスという19世紀と20世紀を代表するヴィオラ・ソナタを一度に演奏するのだから、やるほうも聴くほうも大変だ。
ぼくも久々にいい緊張感を味わった。音楽は必ずしもリラックスするためだけのものではない(緊張があるからこそ、リラックスがあるともいえる)。
ショスタコーヴィチでは赤坂さんのテクニックに驚嘆しつつ、豊かな将来性をはっきりと感じた。ブラームスでは音楽に対する深い理解力を示し、みごとだった。
バッハの無伴奏チェロ組曲のヴィオラ演奏版は、この曲があたかもヴィオラのために書かれた曲だと錯覚させるような名演だった。実際、ぼくはうちに帰ってから、あわててこの曲のチェロ版を聴き直して、「やっぱりチェロのための曲だよな」と確認したくらいだ。
本来はヴァイオリンのために編曲された〈7〉もよかった(この曲は『ダニーボーイ』としても知られている)。
ヴィオラという楽器名を聞いて、現物や音をイメージできる人はそう多くないだろう。実にマイナーな楽器だ。オーケストラにも弦楽四重奏団にもヴィオリストは必ずいるというのに。
簡単におさらいをしておくと、ヴィオラはヴァイオリンよりひとまわり(一般的に15パーセントほど大きいので、文字通りひとまわり)大きい。
ド・ミ・ソの和音を弾く場合、ドをチェロ(とコントラバス)が弾き、ソをヴァイオリンが弾く。ヴィオラは中間のミの音を弾くわけだが、このミの音が半音下がると短調になる。つまり、この場合はヴィオラが短調と長調の鍵を握るわけだ。
それで、「チェロは音楽を支え、ヴァイオリンは音楽を奏で、ヴィオラは音楽をつくる」などと称される。
ヴィオラが独奏楽器として扱われるようになったのは19世紀末で(テレマンの協奏曲やモーツァルトのヴィオラとヴァイオリンのための二重協奏曲などは例外中の例外)、本格的にヴィオラのための曲が書かれるようになったのは20世紀に入ってからだ。優秀なヴィオリストが続々と登場し、演奏技術が飛躍的に向上したおかげだ。
そのヴィオリストらの依頼によって、続々とヴィオラのための曲 が生まれたのである。
こんにちでは世界中のヴィオリストのレパートリーになっている〈6〉も今井信子さんのために書かれた曲だ。ちなみに、赤坂さんは今井さんの愛弟子である。
近い将来、赤坂さんのための新しい曲が誕生するだろう。その初演をぜひ盛岡で聴きたいものだ。 |