トップ > 目と耳のライディング > バックナンバーインデックス > 2010 > 第226回




◆第226回  ポップアートで不景気も梅雨も吹き飛ばそう!(21.June.2010)

POP ART 1960'→2000'
From Misumi Collection
岩手県立美術館 2010年5月25日-7月4日


  今春から岩手県立美術館(以下、県美と略す)の館長に赴任された原田光館長は、県美のことを「バカっ広い」と表現する。言い得て妙とはこのことだろう。
  そのバカっ広さが功を奏することもあれば、そうでないこともある。思いつくままに奏功の例を挙げると、2003年の斎藤義重展、2009年の蜷川美花展が印象深い。スペースが広ければ、それだけたくさんの作品を展示できると思いがちだが、美術館というところはそう単純なものではないようだ。
  もうひとつ、これは県美に限らず、今の美術館は壁が真っ白だ。19世紀末以降の「美術館に展示するために描かれた作品」を展示するにはいいのだが、もともと宮廷や教会などに飾られていた18世紀以前の作品の展示にはあまり向いていない。
  現在開催中のポップアート展は、県美のバカっ広さと真っ白い壁(それに、高い天井)がマッチしている。まず、第一に感じたのはそのことだった。

 次にポップアートというくくり方について考えさせられた。ポップアートは現代美術の一部だ。だから、本展にはポップアートというより現代美術というべきものも多数含まれている。
  ポップアートはポピュラーという語からきている。ポップスと同じと考えるなら、本当の意味でポップアートといえるのはアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン、キース・ヘリングくらいだろう。
  ポップアートは具象作品が多く、現代美術は抽象作品が多い。そういう点から見ると、本展は具象作品が多い。
  でも、「描かれているものがわかる」ということが、果たしてその作品を理解するうえでどれだけ重要なのだろうか。具象作品だろうと抽象作品だろうと、作品に込められた作家(画家)の意図を読み解く想像力が観る側に必要なことはいうまでもない。
  ポップアート(現代美術)は見た目と違って、シリアスな意図が込められている場合が少なくないから、絵柄に騙されないようにしたほうがよさそうだ。
  とはいえ、ポップ・アートには妙にあっけらかんとしたパワーがあり、観ていると自然に気分が高揚する。ポップアートの歴史をたどっていくと、ポップアートは暗い世相を反映しつつ、それを跳ね返す力を持っていたから大衆に受け入れられたことがわかる。

 1997年、初めてニューヨークを訪れたとき、グッゲンハイム美術館でエルズワース・ケリーの大きな展覧会をやっていた。このとき私は初めてケリーを知った。本展でケリーを久々に観て、ニューヨークのことが思いだされた。

 私の個人的なポップアート体験を書いておきたい。
 小学生のころ、図工の時間にスポーツカーを描いたら、先生から別のものを描きなさいと注意をされた。なぜスポーツカーを絵の題材にしてはいけないのか。私は納得できなかったし、出来にも満足していたので、ひじょうに悔しい思いをした。
  中学の美術の時間に絵皿を描かされたときは、黒人がバンジョーを弾いている姿をサイケデリック調に描いた。私が通っていた中学校には岩手大学特設美術課の先生が教えにきていた。その先生は「これはポップアートだね」とおっしゃってくれた。1960年代も末のころの話だ。     

◆このごろの斎藤純

○選挙が近づいてきた。盛岡では県議会の補欠選挙の投票が参議院選挙と同じ日にある。あちこちからお願いされる。みんなに一票を投じたいが、そういうわけにはいかない。

ベートーヴェン:荘厳ミサ曲を聴きながら