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◆ 第275回  ベン・シャーンを見て考えたこと (9.JUL.2012)

『ベン・シャーン展』
福島県立美術館 2012年6月3日〜7月16日

 ベン・シャーン(1898〜1969)は、激動の20世紀の諸事件に芸術家として作品を通して関わりつづけた希有な存在だ。現在のリトアニアで生まれたベン・シャーンはユダヤ人迫害を逃れてアメリカに移住し、アメリカで活躍をすることになる。この出自と社会的背景が、ベン・シャーンに「ザッコとバンデッティ事件」や「ドレフュス事件」などを題材とさせることになる。

 今、なぜベン・シャーンなのか。「第五福竜丸事件」を題材にした「ラッキー・ドラゴン」シリーズがまっさきに思い浮かぶ。
1954年、マーシャル諸島近海で操業中だったマグロ漁船第五福龍丸は、ビキニ環礁で行われた水爆実験に遭遇し、乗組員全員23名が被爆した。アメリカはこの事故の矮小化に躍起になったが、日本をはじめ各国で原水爆禁止の機運が高まっていった。
ベン・シャーンはこの事件を題材にした連作を制作し、後にアーサー・ビナードのテキストによる童話『ここが家だ-ベン・シャーンの第五福竜丸』が生まれる。

 福島の福島県立美術館はもともとベン・シャーンのコレクションを持っていた。東日本大震災後、東京電力福島第一原子力発電所による放射線被害(風評被害を含む)に苦しんでいる。「この時期だからこそ」という熱い思いでこの企画を進めたに違いない。
私も福島でベン・シャーンを観ることに特別な感情を抱かないわけにはいかなかった。

 と、ここまでは前置きである(長い!)。
個々の作品についての感想を述べることはしない。展覧会場を後にするとき、私はひじょうに重い気分にとらわれていた。
私は福島県立美術館にエールを送るつもりで足を運んだ。その気持ちは今も変わらない。
けれども、私がそこで目にしたのは、福島県立美術館の熱い思い(と、それを応援した私の気持ち)に水をさすものだった。展示を予定していた作品のうち、なんと70作品について、所蔵先であるアメリカの美術館から「福島には貸せない」と断られたため、代わりにパネルやインクジェットプリントの代用品が展示されていたのだ。
福島県立美術館は放射線を計測して安全性を伝えるなど努力をしたが、アメリカ側の理解は得られなかった。貸し出しを拒否した美術館は、メトロポリタン美術館、スミソニアン協会ハーシュホーン美術館、ホイットニー美術館、ニューヨーク近代美術館、ジューイッシュ美術館、ハーバード大付属フォッグ美術館である。

 これらの美術館は今回の決定について、いずれは後悔すると思うが(ルーヴル美術館が貸し出しているのに、なぜ判断が異なるのか)、簡単に批判することは避けたい。
美術館は美術品を、所有しているのではなく、預かっているのである。誰から預かっているのかというと、後世の人々からである。預かっている美術品に「もしも」のことがあって、今後、何百年も(あるいは永久に)公開できなくなっては、後世の人に申し訳がたたない。
だから、万全を期した。

 もちろん、それは理解できる。
だが、ここでもうひとつの「もしも」を考えないではいられない。もしもベン・シャーンが生きていたら……と。
もしもベン・シャーンが生きていたら、きっと福島にこそ作品を貸し出すべきだと主張したはずだ。
ここまで考えて私はひとつの結論を得た。
美術館と美術家の役割は決して同じではない。ときとして、相反することもあるのだ。今回のことがその典型だろう。

 展示作品は欠けているが、それでも力のこもった企画展であることに変わりはない。それだけに、とても残念だった。

 ところで、芸術家は「浮世離れしている」と思われがちだが、決してそうではない。ベン・シャーンは直截に社会との関わりを表現したから、ある意味でわかりやすく、社会派というレッテルも貼られがちだが、多くの芸術家がそれぞれの表現方法で社会を風刺したり、糾弾したり、憂えたりしてきたことも忘れてはならないだろう(もちろん、社会との関わりを絶って独自の「美」を追求する芸術家もいるわけだが)。
これは音楽についても同じことが言える。多くのクラシックファンが苦手としている現代音楽が「美しくない」のは、私たちが生きている社会が美しくないからでもある。
◆このごろの斎藤純
〇網張スキー場までロードバイク(自転車)で行ってきた。前回から3年も経っていて、やはり体力の低下を実感した。それでも、最後まで諦めずに時間をかけて(盛岡市中心部から網張スキー場まで2時間30分)登りきった自分自身を褒めてやった。
山下洋輔/寿限無を聴きながら