〇富岡鉄斎百選展
盛岡市民文化ホール・展示ホール(マリオス4階)
大人・大学生1050円 高校生525円、中・小学生420円
(今回は岩手日報社から招待券をいただきました)
初めて富岡鉄斎の作品を観たとき、僕はまっさきに萬鉄五郎を連想した。鉄斎は中国伝来の水墨画技術を継承しながらも、独自の画風を築いた。萬は我が国のフォーヴィスムの先駆者だが、新しい水墨画を模索し、その志半ばで逝った。晩年の水墨画には鉄斎にも通じるユーモアが感じられる。
鉄斎は晩年まで「自分は画家ではない」と言いつづけていた。では何なのかというと、「文人である」ということになる。文人というのは、いわば「知識人」といった意味だろうか。いや、昨今の知識人はマスメディアに出ているときだけ善人の顔つきをしているが、裏では何をやっているかわかったものではないから、この言葉も当たらない。僕のような三文文士(この言葉も死語になった)も時として「知識人」扱いされるのだから、なおさらだ。したがって、鉄斎の言う文人とは「深い学識と教養、そして人格を備えた類稀れな人」くらいに解釈しておけば、大きな間違いにはならないだろう。実際、鉄斎はそういう人物だった。といっても、決して堅苦しいだけの人ではなかったようで、それは今回の展覧会の絵を観てもわかる。
鉄斎の絵の基本は、中国から伝えられて、我が国の画壇で脈々と受け継がれてきた南画にあるが、その枠にとらわれず、奔放に飛翔している。現代的なのだ。だから、僕のように南画の素養がなくても面白がって観ることができる(ただし、南画や中国故事、儒教などに通じていないと鉄斎を本当に理解したことにはならない。だから、僕は鉄斎を半分もわかってはいない)。
萬鉄五郎もまた「人格の拡充こそが芸術の基本だ」という信念の持ち主だった。ところが、萬は鉄斎をあまり評価していなかった。「世間で考えている半分位の人であろう」と言い切り、浦上玉堂などの「古来の名家に比すれば顧みるの価値はないが、学問人格の点を考慮して第三流位に見て置くのである」と大正14年の「中央美術」に書いている(引用は『鉄人画論』/中央公論美術出版から)。大正14年といえば鉄斎が亡くなった翌年であり、すでに大家として鉄斎の名は広く知られていた。その鉄斎をばっさりと斬ってしまうのだから、萬鉄五郎という画家はますます面白い。
鉄斎は1836(天保7)年に生まれ、1924(大正14)年に89歳で亡くなった。ちなみに萬は1885(明治18)年に生まれ、1927(昭和2)年に亡くなった。41歳だった。長寿の鉄斎と早世の萬は活動時期が重なっていることに気がつく。鉄斎というのは昔の画家で、萬は比較的最近の画家という印象(こういう思い違いがけっこうあるものです)を持っていただけに意外だった。
意外といえば、思っていたよりもタッチが荒っぽいのも意外だった。言葉を変えれば、豪放なのだ。
絵と一緒に書かれた詩などの文章を「賛」という。賛を画家本人が書くことはあまりなく、たいていの場合は別の人が書いた。鉄斎は自分で書いている。
賛は、つまり、絵の主題だ。明治時代に西洋絵画を取り入れたとき、この賛が問題になった。西洋の近代絵画に、賛はもちろんない。文章が書かれた絵など「絵ではない」ということになった。だから、明治時代に「西洋絵画に負けてなるものか」と描かれた日本画に賛は書かれていない。賛の伝統がそこで途絶えた。
ただし、鉄斎だけは別だった。なにしろ、「画家ではない」のだから、西洋絵画の潮流にまどわされることもなく、堂々と賛を書き入れつづけた。孤高の画家と呼ばれる所以である。
今回の展覧会には、扇に描いた小品や茶道具なども合わせておよそ100点もの作品(初公開のものが多いという)が集められている。僕はこれまでにあちこちの美術館でポツンポツンと鉄斎の作品を観てきたが、こんなにまとまった数は初めてだ。詳しく調べたわけではないが、鉄斎は1万点あまりの絵を描いたそうだから、全貌をつかむというにはこれでも足りないが、画業の変遷を知ることはできる。80代になってからの作品には、ただただ恐れ入るばかりだった。
繰り返しになるけれど、本展覧会にはおよそ100点もの作品が集められてこそいるが、これでも鉄斎の画業の一部に触れたことにしかならない。これを機会に、これからは行く先々で鉄斎の作品を注意して見てまわりたいと思っている。
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