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◆第36回 イーハトーヴの響き( 4.november.2002)

弦楽合奏団バディヌリ 第6回定期演奏会
2002年10月26日
盛岡市民文化ホール大ホール 1000円(全席自由)

 「盛岡に帰ったら、バディヌリの演奏をぜひ聴いてみてください」
 カザルスホールの中村ひろ子プロデューサーから、そう言われていた。昨年、楽しみにしていたバディヌリの第5回定期演奏会は〈みちのく国際ミステリー映画祭〉と重なっていたため、残念ながら聴くことができなかった。そんなわけで、今回は大いに期待して出かけた。
 結論から言うと、期待は裏切られなかった。それどころか、期待を遥かに凌ぐ内容だった。
演奏曲目は下記の通り。

T.アルビノーニ:弦楽5声のためのソナタ Op.2−5
長谷川恭一:種山が原
G.フィンジ:「復活の日」Op.8より「I intrada」

             −休息−

E.エルガー:弦楽セレナーデ Op.20
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番より
        「シャコンヌ」(Luigi Schinina編曲)

〈アンコール〉
「大きな古時計」(Henry C. Work/長谷川恭一編曲)
「Salsa per Christina」(Christoph Luscher)
「プリンク・プレンク・プランク」(Leroy Anderson)

 バロック、イギリス近代、アメリカのフォークソング、現代の作品と多様な曲目だ。これがバディヌリの姿勢をあらわしている。器用という意味ではない。懐の深さと言っていいかと思う。
 僕は前日の夜に大ホールで行なわれたリハーサルを聴いている。これは僕が特別待遇を受けたわけではなく、バディヌリは前々日と前日のリハーサルを公開しているのだ。〈楽しいクラシック音楽鑑賞講座〉でもリハーサルの一部を聴く機会があったので、本番での演奏といろいろと比較することができて面白かった。いや、面白かったというよりも、正直なところ驚いた。
 「シャコンヌ」と「種山が原」を前日のリハーサルで聴いたときは、あと5回くらい練習すればもっとよくなるだろうに、と思った(5回という数に根拠はなく、練習不足だと思ったのです)。しかし、この印象は本番で覆された。

 「種山が原」は宮沢賢治の「種山が原」がモチーフに使われている。大きくうねるようなリズム感が全体に流れていて、長谷川恭一さん(彼はバディヌリのチェンバロ奏者でもある)ならではのモダンな和声が特徴で、いかにも演奏は難しそうだ。実際、練習の演奏では物足りなさを覚えた。作曲した長谷川さんも、やや不満そうな表情を見せていた。
 ところが、本番では違った。聴くものを宮沢賢治とバディヌリの世界にぐいぐいと引きずりこむ力強さに、優しさを併せ持った演奏だった。長谷川さんも「いい出来だった」と頬を紅潮させていた。 この曲を聴きながら、僕は草原を見ていた。風が吹いて、青空の下で草原が波のようにうねり、緑から銀色に、そしてまた銀色から緑へと色を変える草原だ。同時に夜空に輝く星も見ていた。どんよりと曇った空の下で、冬枯れの草原の風景も見ていた。僕にとって「種山が原」は、そういうイメージの曲としてインプットされた。
 「シャコンヌ」はヴァイオリン独奏のための作品で、ヴァイオリニストの試金石とも言われる名曲だ。この曲に何度も挑戦して録音を残しているヴァイオリニストもいれば、あえてこの曲の録音を避けるヴァイオリストもいる。弦楽合奏版であっても事情は同じで、技術的にはさほど難しくはないかもしれないが、人さまに聴かせる演奏となると容易ではない。
 果たして演奏後、客席のあちこちから「ブラボー!」の声が上がった。バディヌリはこの作品に対する深い理解を、大変な集中力でもって表現した。もしかすると、技術的な点で「乱れ」が生じたことを指摘することは可能かもしれない。でも、「乱れ」にも音楽的なものとそれ以外のがある。音楽的な「乱れ」は生演奏ならではの味だと僕は思う。
 フィンジとエルガーはイギリス近代の作曲家だ。エルガーはともかく、フィンジとなると「知る人ぞ知る」存在だろう。一般に聴衆は聴き慣れた作品を求めるから、こういう選曲は冒険なのだが、知られざる名曲を紹介することにもバディヌリは喜びを見出している。僕はその姿勢を全面的に応援する。盆栽を愛でるような音楽鑑賞もそれはそれでけっこうなのだが、演奏会から知的興奮や知的好奇心の要素を欠いたら、ずいぶんつまらないものになってしまうに違いない。そういう意味でも、長谷川恭一さんの「種山が原」は強く印象に残った。この曲はバディヌリのために書いた弦楽セレナーデの第三楽章とのことだ。ぜひとも全曲を聴いてみたい。

 バディヌリはメンバーの入れ換えはあるが、結成21年になるという。指揮者はいない。クァルテット(弦楽四重奏団)のように、メンバーが話し合って音楽を築きあげていく。そして、この日に演奏した27名のメンバーは医師、会社員、大学院生、主婦たちだ。ほとんどは、音楽の専門教育を受けていない。僕はひそかに、そこが素晴らしいと思っている。このメンバーが奏でる響きは、真冬の冷気と、一斉に花が咲く春の淡い陽射しを感じさせる。チェコ・フィルに似ているかなと思ったりもしたが、いや、どこにも似ていない。イーハトーヴの音だ、と僕は思う。
 あらゆるものを犠牲にして音楽に人生を捧げた音楽家でなければ達しえない音楽もあるが、ふつうに社会生活を送っている「音楽家」でなければできない音楽もあるのではないか。バディヌリの演奏を聴いて、そんなことを考えさせられた。

 配られたプログラム(これがまた内容豊富なプログラムで、感心した)によると、来年の第7回定期公演は2003年10月25日(土曜日)午後7時から、盛岡市民文化ホール大ホールで行なわれる予定だ。公開リハーサルもあるはずなので、今からカレンダーに印を付けて、心待ちにしている。

◆このごろの斎藤純

〇第6回みちのく国際ミステリー映画祭が終わった。予算不足、人手不足、宣伝不足と不安材料だらけのスタートだったが、終わってみれば過去最高の動員数を記録していた(18000人超)。来年以降への励みになる結果を残せたと思うし、この映画祭が市民に愛されていることを実感した。
〇三十代半ばの女性から、こんな話を聞いた。彼女が一関のジャズ喫茶ベイシーに行ったとき、マスターの菅原正二氏から「これからが本当に楽しくなる年齢だよ。今までは練習だと思いなさい」と言われ、とても勇気づけられたと喜んでいた。この言葉は金言集に載せるべき名言だと思う。

R・シュトラウス:「メタモルフォーゼ」を聴きながら