もし、僕が盛岡に住んでいなかったら、この展覧会は見ていなかった。いや、見逃していたと思う。ポスターに使われている作品のあまりにも鮮やかな色彩は、僕には縁も興味もない類のものだった。
それでも、盛岡では美術展が限られているから、「ま、こういう機会じゃないと二度とお目にかかれないだろうし」という消極的な動機で出かけた。
韓国というと直感的に(あるいは単なる先入観かもしれないが)派手な色彩感覚をイメージする。そのイメージどおりの展覧会だった。
李朝時代の絵、装身具や衣類などから現代の映像芸術まで時空を超えた展示内容だが、「韓民族の色」という見方をすれば、連綿とつながっていることがわかる。
現代の作家が「韓民族の色」を意識しているかどうか、それは僕にはわからない。意識しなくても出てくるものかもしれない。もしかすると、日本の統治下時代に「大和化」を強いられた過去があるから、自国の伝統や文化の再生を意識しているとも考えられる。
それにしても屈託がない。たまたまそういう作品が揃ったのだろうか。鮮やかな色使いゆえに屈託がないと映ったのかもしれないが(ピンクの巨大な糞などはその最たるものです)。そういえば「みちのく国際ミステリー映画祭」にお招きしてきた韓国映画人たちも(日本の映画人と比べると)屈託がないものなあ。
前回の「斎藤義重」展 は作品と共に美術館のスケール感を堪能させてくれる好企画だったが、今回も同様の印象を受けた。
岩手県立美術館もオープンして、およそ1年半。ここに来ていよいよ真価と本領を発揮してきたと思う。というのも、正直、はじめのうちは違和感があって展覧会を心から楽しむことができなかた。展示作品と会場がうまくマッチしていないように感じられたせいだ。もしかすると、この美術館はヒューマンサイズを逸脱しているのかもしれない、とさえ思った。
けれども、美術館というものは何年もかかって一人前になるのであって、最初から何もかもがカチッと決まるものではない。したがって、岩手県立美術館もようやく顔つきが整いだしてきたといったところか。
展覧会を見終えたとき、何かふんわりと柔らかな気持ちに包まれていた。この気持ちを消したくなかったので、常設展は見ないで帰ることにした。「これは僕の領分、これは僕の領分の外」と簡単に決めてしまう傾向が僕にはある。この展覧会でそれを戒められたように思った。精神の柔軟性を失いたくないものだ。
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