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◆第63回  極上のエンターテインメント( 26.January.2004)

 クラシックというと、まず「教養」とか「芸術」といった堅苦しいイメージばかりが浮かび、やたらと敷居が高くて、とっつきにくい感じがする。これはクラシックファンにも責任があるんじゃないかな、と思う。クラシックファンを観察してみると「クラシックという芸術を理解する、あるいは理解できる教養人」であり、一種の「特権階級」という自惚れ(勘違いともいう)がある。で、意識しているかどうかは別として「壁」をつくり、とっつきにくいものにしてしまっている。
 ついでに書いておくと、クラシックコンサートに来ている人のなかには「ちっとも楽しくなんかないんだが、数学や歴史の授業だって楽しくなかったんだから、これも我慢して聴かないと教養が身につかない」という人だっている(この種の人が意外に多いと僕はにらんでいる)。

 クラシックファンだけではなく、演奏家のなかにも「クラシックは、わかってくれる人だけがわかればいいのだ」などと呑気に(偉そうに、というよりもそれは明らかに呑気なのだ) かまえている人がいないわけではない。
 クラシックファンの場合は単に「おっちょこちょい」なだけだから罪がないと言えるが、演奏家はそれではすまないんじゃなかろうか。
 というのも、ぼやぼやしているうちにクラシックを聴く人はどんどん減っていき、コンサートを開いても客は集まらないし、CDを出してもちっとも売れないという事態を招くことになる(もう現実に販売減少は起きている)。すると、コンサートは開かれなくなり(実際、地方都市でのクラシックコンサートは少ない)、CDも制作されなくなり、往年の名演奏家による旧譜の再発だけになる。クラシックファンの多くは、それで充分と思っている節があるからいいかもしれないけど、そうなって困るのは今を生きる演奏家自身だ(もちろん、 コンサートで生の演奏を聴くのを生き甲斐にしている僕も困る)。

 モーツァルトの時代(ということは今から200年ほど前ですね)、新作の交響曲の演奏会では聴衆が熱狂して、拍手と歓声で演奏が中断されそうになったそうだから、現代のロックみたいなものだったのかもしれない。
 その頃と同じような状況を迎えることは無理としても、 たとえばテレビから頻繁にクラシックが流れていて、日常的にクラシックと接する機会が増えれば、クラシックファンは確実に増える。が、言うまでもなく現状では無理な話だ。
 日本だけでなく、イギリスでもフランスでもアメリカでも(つまり、クラシックの本場でも)「クラシック離れ」が進行中だという。が、そうは言っても、プロムス・コンサートやタングルウッドのピクニックコンサートなどのようすをテレビで見ると、多くの人が気軽にクラシックを楽しんでいるのがわかる。やはり、クラシックを取り巻く土壌(あるいは歴史)が日本とはまったく違うんですね。

 冒頭に記したことと齟齬をきたすようだけれども、 僕はクラシックが易しい音楽だとは決して思わない。やはり「耳の鍛練」は必要だ(全部が全部そうだというわけではないが)。だから、聴衆を育てなければクラシックは滅びる。
 聴衆を育てるという点こそが、ポップスとの決定的な違いだろう。そして、クラシックの演奏家を育てる大学はたくさんあるけれど(国立のまであるのに)、聴衆を育てるということに関しては、演奏家にまかせっきりになっている。

 こう書くと「やっぱりクラシックは小難しい音楽なんだな」と思われてしまうかもしれないけれど、そんなことはなくて、楽しむツボさえわかってしまえば槍が飛んでこようが矢が飛んでこようが何も恐れることはない(コンサートホールで槍や矢が飛んでくることは決してありません。念のため)。
 そういう意味でも、とてもいいコンサートがあったので記しておきたい。

 まず、仙台フィルハーモニー管弦楽団による「名曲コレクション」です(1月7日、盛岡市民文化ホール大ホール)。
 曲目は――。

〈第1部〉
@ F.v.スッペ:喜歌劇「詩人と農夫」序曲
A A.ドヴォルザーク:ユモレスク Op.101-7
B J.シュトラウスII:ウィーンの森の物語 Op.325
C A.ヴィヴェルディ:ピッコロ協奏曲 ハ長調
D G.ビゼー:「アルルの女」組曲より 間奏曲、メヌエット、ファランドール
〈第2部〉
E P.デュカス:交響曲「魔法使いの弟子」
F P.I.チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ
G E.シャブリエ:狂詩曲「スペイン」
〈アンコール〉
H A.ピアソラ:タンゴNo.1
I J.シュトラウスU:無窮動

 曲名からはピンとこなくても、どこかで耳にしている曲ばかりだ。外山氏自らがマイクを手に、曲にまつわるエピソードなどを紹介して進行する。かなり専門的な内容にまで触れているので、毎年このコンサートに通えば、かなりの「クラシック通」になれるはずだ。しかも、外山氏のお話は決して難しくない。音楽の本質に関わる部分をにこやかに、スマートに、歯切れよく、わかりやすく、我々に教えてくれるので「クラシックのコンサートだぞ」と身構えることなく、どんどん音楽に引き込まれていく。もちろん、仙台フィルの演奏も活気があって素晴らしい。身構えていた人もコンサートが進むにつれてリラックスして楽しんだことだろう。
 こういう試みを通して外山氏は「クラシックを楽しむコツ」を我々に伝授しようとされているのだ。「クラシックの伝道師」と僕は勝手に呼びたい。

 この日は、 冬の盛岡に春の明るさを届けてくれるような曲が並んだが、それゆえに「ちょっとあっけらかんとしすぎるかな」という印象もあった。それで外山氏はアンコールにピアソラ(この人をアルゼンチン・タンゴのバンドネオン奏者としてしか見ていない人が少なくないが、コンセルヴァトワールでアカデミックな音楽教育を受けているし、タンゴ界ではむしろ異端視されつづけた)を持ってきてバランスをとった。ちなみに「タンゴNo.1」が国内のコンサートで演奏されたのは初めてだったらしい(これを日本初演と言います)。

 次は「めざましクラシックスin盛岡」(1月9日、盛岡市民文化ホール大ホール)について。
 曲目は――。

〈第1部〉
@ J.S.バッハ:G線上のアリア
A ボロディン:ダッタン人の踊り
B レハールのワルツ・メドレー
C カッチーニ:アヴェ・マリア
D サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
〈第2部〉
E リチャード・ロジャースのワルツ・メドレー
F プリンセス・メドレー
G メンケン:美女と野獣
H サウンド・オブ・ミュージックより
〈来生たかおスペシャル・ゲスト・コーナー〉
I 浅い夢
J 夢の途中
K Goodbye Day
L ハチャトリアン:剣の舞
〈アンコール〉
M 星に願いを

 これは2003年9月20日(バックナンバー第34回をご覧ください)に続いて盛岡では二回目の公演だ。出演はレギュラーメンバーの高嶋ちさ子(ヴァイオリン)、フジテレビの軽部真一アナウンサー、ゲストにウォルト・ディズニー作品日本語版の『美女と野獣』(93年、02年公開)でヒロインのベルを、『メリー・ポピンズ』(94年ビデオ版)でメリー・ポピンズの歌の吹き替えを担当したミュージカル俳優の伊東恵里、そしてシンガーソングライターの来生たかお。
 男よりも男っぽいと評判の高嶋ちさ子さんとクラシック通で歌も披露(G)する軽部さんのお二人のテンポのいいお喋りと、聴き応えのある演奏で存分に楽しませてもらった。高嶋ちさ子さんは入手したばかりのストラディヴァリウスの「鳴りがよくなってきたところ」とのことで、とても張り切っていて、その嬉しさがこちらにも伝わってきた。

 仙台フィルによる「名曲コレクション」と違い、こちらはライトクラシック(編曲もの)だが、いい加減な内容ではない。こういうコンサートを聴いているうちに耳が肥えていく。これをきっかけに「あの曲をちゃんと聴いてみたい」と思ってくれる人がいればしめたものだ。

 特筆したいのは、坂口奈央アナウンサーがピアノの演奏に挑戦したことだ。曲目は何とショパンの『革命』。出だしの部分をちょっとだけ弾いたのだが、ちょっとだけといってもかなり難しい。「ずいぶん無茶をやるなあ、エリック・サティでも弾いてお茶を濁せばいいものを」と内心では思ったが、余計なお世話に違いない。なにしろ坂口アナは、学生時代に新聞配達をしながらアナウンサーを目指していたという頑張り屋さんだ。

 というわけで、今回は『ギターを聴く その2』を書くつもりだったんですが、どうしても上記の二つについて書き残しておきたかったので変更しました。『ギターを聴く その2』は次回必ず。

◆このごろの斎藤純

〇萬鉄五郎記念美術館(東和町)の運営委員をつとめることになった。クラシックと同様、美術もまた「生きていくうえでの糧」になるのだということを少しずつでも広めていきたいと思う。
〇発売中の『別冊東北学vol.7』で外山雄三氏と対談をしています。音楽専門誌では言えないようなことを外山氏がお話ししています。書店で見かけたら、ぜひ手にとってご覧ください。

アンドリュー・ヨーク「Into Dark」を聴きながら