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◆第83回 ヨーヨー・マの神業と人間性( 1.November.2004)

 凄いコンサートだった。
  どんなふうに凄かったか。
 「何がなんだかよくわからないほど凄かった」(知人のアマチュア・チェロ奏者Tさんの言葉)というのが正直な気持ちだ。でも、まあ、これじゃ本当に何のことかわからないので、まずは曲目からどうぞ。

〈第1部〉
@ シューベルト(1797-1828):アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821
第1楽章 アレグロ・モデラート
第2楽章 アダージョ
第3楽章 アレグレット

A ショスタコーヴィチ(1906-1975):チェロ・ソナタ ニ短調Op.40
第1楽章 モデラート〜ラルゴ
第2楽章 モデラート・コン・モート
第3楽章 ラルゴ
第4楽章 アレグレット

B ピアソラ(1921-1992):ル・グラン・タンゴ

〈第2部〉
C ジスモンチ(1947-):銀婚式〜4つの歌
D フランク(1822-1890):ヴァイオリン・ソナタ イ長調(チェロ用編曲版)

〈アンコール〉
モリコーネ:ミッション(ガブリエルのオーボエ、滝)
ガーシュイン:3つのプレリュード
マスネ:タイスの瞑想

 @のアルペジョーネ(19世紀に誕生してすぐに消えた新作楽器で、ヴィオラ・ダ・ガンバに似ている)のためのソナタは、こんにちチェロかヴィオラで演奏される。僕はユーリ・バシュメット(ヴィオラ)のライヴCDが好きでよく聴いている。
 この曲はさらりと流そうとすれば、そうできる曲だ(演奏上は難しいところがいっぱいあるそうだが)。が、ヨーヨー・マの手にかかると、ベートーヴェンやブラームスのチェロ・ソナタに匹敵するような深い音楽になる。

 「しょっぱなからこれは大変なことになった」と思ってドキドキしたが、ショスタコーヴィチのAで僕は完全にヨーヨー・マの宇宙に吸いこまれた。
 フォルテは蒸気機関車を想わせて信じがたいほど力強く、アレグロでは12気筒のフェラーリのように飛ばす。ピアニシモで音は弱くなるのだけれど、決して聴こえなくなるわけではなく、小さな音が繊細に響く。こうなるともう神業としか言いようがない。

 この曲は多くのチェリストがCD化していて、それぞれ聴くべきところがあるのですが(クラシックは楽譜通りに弾くのだから誰がやっても同じになると思われがちだが、そうではないところが音楽の面白さでもある)、僕はヨーヨー・マのCDを聴いて初めて「これはこういう音楽だったのか」と全貌に触れることができた(ついでながら、タヴナーのチェロ協奏曲「ザ・プロテクティングベール」も他のチェリストのCDでは掴みどころがなかったのにヨーヨー・マの演奏によって生気を得て輝いた)。 それに僕はショスタコーヴィチが大好きなので、Aを聴けたことは一生の宝となるだろう。

 この日のコンサートはピアソラのBでクライマックスを迎えた。他にたとえようのない求心力、迫力、説得力にただただ酔うばかりだった。ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタのようにきっちりとすみずみまで書かれた作品と違い、この作品は演奏者の内面がより表出しやすく、その日の体調や精神状態にも左右される。この日のヨーヨー・マはよほど乗っていたのだろう。いや、常のこれだけ高いテンションの演奏をしつづけていることがヨーヨー・マの真の凄さなのかもしれない。

 ジスモンチ(ブラジル出身の鬼才で、ピアノとギターの達人でもある)は僕の好きな音楽家だ。こういう人の曲を取り上げるのもヨーヨー・マならではのことだ。
 ヨーヨー・マは現代の音楽を紹介することは自分の義務だと言っていて、意図的に現代音楽をプログラムに組み込む。 こういう姿勢も僕がヨーヨー・マを好きな理由の大きなひとつになっている。
 フランクのヴァイオリン・ソナタはブラームスやベートーヴェンのそれと並ぶ名作で実演を聴く機会も多いが、そのチェロ版を聴くのは初めてだ。しかし、ヨーヨー・マの手にかかるとヴァイオリンの曲だとかチェロの曲だとかいったことがまったく関係なくなるんですね。そこにはただ素晴らしい音楽があるだけである。

 ピアノが単なる伴奏を遥かに超えた役割を担っているAや、その場の雰囲気で音楽がどんどん変化する(音楽評論家っぽく言うなら「即興性に富んだ」)BやDで素晴らしい反応を示し、ヨヨー・マとひとつになって音楽をつくりあげたキャサリン・ストットの好演も特筆しておきたい。

 ヨーヨー・マについては僕の音楽エッセイ集『音楽のある休日』(河出書房新社)でも多くのページを割いている。直接お会いしたことはないが、ウィントン・マルサリスと組んだ音楽教育番組などを通して、暖かくて包容力に富んだ人柄と飽くなき探究心の持ち主であることを知っている。
 ヨーヨー・マが人格者であることは間違いない(ご本人はそんなふうに言われるのを厭がるかもしれない)が、唯一の欠点は「チケットが手に入らないこと」だ。今回もギドン・クレーメルと共演する東京公演のチケットは入手できなかった。でも、ソロ・リサイタルを聴くことができて、本当によかった。

 この日のヨーヨー・マは音楽がただの「いい趣味」などではないことを証明してくれたように想う。音楽を愛する喜びを味わわせてくれるコンサートはこれまでにも何度か体験しているが、それを超えていた。ヨーヨー・マの音楽は「生きる喜び」を表現し、心に訴え、聴くものに味わわせてくれた。

 盛岡市民文化ホール(大ホール)は満員だった。ふだん、クラシックを聴かない人、もっと言うなら有名なヨーヨー・マを見にきた」という半ば野次馬みたいな人が大多数だったと思う。ヨーヨー・マの音楽は、そういう人たちにも感動を与えたことだろう。
 これを機会に室内楽の面白さに興味を持ち、コンサートに足を運んでいただくようになればいいのだが。

 ところで、ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタの曲想(曲のイメージをあらわす標語。鑑賞する際にも、演奏者によって曲想の表現の違いがわかる)だが、僕が持っているヨーヨー・マとスティーヴン・イッサーリスのCDではパンフレットと違い、
 第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ
 第2楽章 アレグロ
 第3楽章 ラルゴ
 第4楽章 アレグロ
 となっている。ちなみに『作曲家別名曲解説ライブラリーNショスタコーヴィチ』(音楽之友社)を見るとパンフレットと同じだ。どっちが正しいのだろうか。

◆このごろの斎藤純

〇みちのく国際ミステリー映画祭前夜祭イベントのミステリー劇『夜の来訪者』のゲネプロ(最後の総仕上げの稽古)を観た。そもそもこの企画は「映画は演劇、音楽、美術などあらゆるジャンルの総合芸術なのだし、演劇の盛んな盛岡での映画祭なのだから、ぜひ「映画化された演劇をご覧いただきたい」と僕が言いだしてはじまった。過去、『暗くなるまで待って』(映画の成功後、舞台化された)。、『デストラップ/死の罠』、『検察側の証人(映画化題名『情婦』)を上演してきて、好評を博してきたが、今回も熱の入った芝居に仕上がっていた。これだけレベルの高い演劇を毎年上演できる盛岡の底力にただただ驚くばかりだ。
〇市内にも紅葉が下りてきた。岩手山が雪化粧をし、峠には積雪が見られるようになった。我々オートバイ乗りにとっては寂しい季節がはじまる。

タン・ドゥン/交響曲1997「天、地、人」を聴きながら