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◆第105回 笹森儀助を知ってますか(5.september.2005)

『辺境からのまなざし 笹森儀助 展』
青森県立郷土館(青森市) 2005年7月26日〜9月4日

 ツーリング専門誌〈アウトライダー〉の菅生編集長から「笹森儀助を知ってますか」と訊かれたのは、もう7年か8年ほど前のことだったろうか。
  「青森出身で、明治半ばに沖縄諸島を踏査した人です。後に青森市長もつとめてるんですよ」
 そう教えてくれたときの菅生編集長の目を私は今でも鮮明に覚えている。溢れる憧憬の思いに輝き、どこか「いてもたってもいられぬ」様子が感じられた。
 事実、菅生編集長は青森図書館で笹森儀助関連の資料を漁り、さらには儀助の足跡を追って沖縄諸島にまで足を伸ばすことになる。
 それから数年後、〈別冊太陽〉で「日本の探検家たち」という特集があった。
 「南方探検時の儀助のスタイルが独特なんです。暑いですから単衣を尻っぱしょりして、木から落ちてくるヒルから身を守るために洋傘をさしているんですよ」と、菅生編集長から聞いていたとおりの笹森儀助の写真が掲載されていた。

 儀助は沖縄の他に、千島列島、朝鮮、シベリアも旅している。そして経世家として儀助は〈日本国家の「辺境」に位置する人々の生活は「天然ノ生理」に根拠づけられており、それらはなんら劣ったものや、差別されるものではない。中央政府が行うべきことは「辺境」に住む人々が生来の生活を送ることを保証し、彼らの生活が「天然ノ生理」にしたがってよりよくなるように援助すること〉(図録9ページから引用)と主張した。
 これは、こんにちの日本国内はもちろんのこと、国際社会(先進国と途上国)にも通用する。つまり、笹森儀助は「古くて新しい」のだ。
 また、儀助は自由民権運動に対して批判的だったため、誤解を生んだ。実際には開明的で民主的な政治を実践した。したがって、一部の言動をとらえた評価より、生涯の行動を通して論じるべきだという見直しが近年活発になっているという。研究が進むことによって、これまで知られていなかった儀助像が明らかになっていくだろう。とても楽しみだ。

 私は儀助を「探検家」としてしか認識していなかったので、士族授産、実業教育などの分野における活動や陸羯南、佐々木高行、鳥居龍蔵、 本多庸一らとの交流を示す資料が興味深かった。
 ユニークなのは当時、儀助が見たであろう琉球の風俗を紹介している点だ。この展覧会への熱い思い、ひいては笹森儀助に対する真摯な姿勢が、展示内容からひしひしと伝わってくる。
 欲をいうなら「展示」からもうひとつ脱皮し、「楽しみながら見てもらう」工夫がほしかった。すべてがガラスケースの中の世界なので、よほど興味を持っている人以外には、のっぺりとした退屈なものになりがちだ。たとえば儀助の〈南方探検〉スタイルを、マネキン人形で再現してみせれば、与える印象も違うだろう。
 貴重な資料が豊富に揃っているだけに、そして儀助その人が展示用のガラスケースに収まりきらないスケールの人物であるだけに、惜しいような気がした。

 それにしても、笹森儀助もまた津軽人なのだ。
 津軽人は型におさまらず、型からはみ出る。その結果、それは多様性を生む。たとえば、寺山修二がそうだった。
 津軽三味線も「型からはみ出る」ことによって明治期に生まれた新しい音楽だ。民謡をベースにしていながら、義太夫で使う太棹三味線を用いた(さらに改良したわけだが)こともその実例だ。さらに付け加えるなら、津軽三味線以前に「音楽」という概念を持つ曲はおそらく日本にはなかった。あるのは「唄」だったのである。そもそも中国渡来の雅楽以外に、それまでの日本には器楽曲という形態もなかったのだから。

 「津軽人」というくくりかたには当の津軽の人たちから「ひとくくりにしないでくれ」とお叱りを受けそうだが、儀助の先進性と多様性はいかにも津軽人だという気がする。

◆このごろの斎藤純

〇上記の展覧会にはオートバイで出かけた。十和田湖や八甲田界隈を走りまわって青森市に着くと、そこは大都会である。弘前市は何度も訪れているが、青森市内は初めてだった。今回は日帰りだったが、いつかゆっくりと青森市を味わってみたい。
〇今年は体調を大きく崩すこともなく、夏を乗り切った。それにしても、朝夕は過ごしやすくなったが、こんなに残暑が厳しい夏も珍しいのではないだろうか。

ブゾーニ/エチュードを聴きながら