来月、盛岡市と矢巾町でつづけて「第九」のコンサートがある。そこで、何回かに分けて「第九」について書こうと思う。
「第九」は改めていうまでもなく、ベートーヴェンの交響曲第9番イ短調作品125のことだ。この曲は、ベートーヴェンの代表作であるばかりでなく、クラシック音楽の傑作中の傑作といわれている。
そこで、「クラシックを聴くならまずこの曲」と、まったくクラシック音楽の素養のない人がこれを聴いて、たいていの場合は「クラシックは難しい」と敬遠することになる。
ものには順序というものがある。クラシックを聴いたことのない人が「第九」から入門するのは、これからジョギングを始めようというときに、いきなりフルマラソンに挑戦するようなものだ。
けれども、上記はあくまでも常識的な話にすぎない。音楽(芸術と言い換えてもいい)の世界では、しばしば常識では推し量れないことが起こる。生まれて初めて聴いたクラシックが「第九」で、それ以来、クラシックの虜になったという人もいるのだ。
また、合唱が出てくる第4楽章だけを聴いて、「第九」を聴いたつもりになっている人が少なくないが、これはアガサ・クリスティを後ろのページだけ読んでいるようなものだ(「第九」に限ったことではないのだけれど)。
結論から書く。
「第九」は哲学書だ。文字ではなく、音符で書かれた哲学書だ。
そして、ベートーヴェンの「第九」には尋常ではない力がある。その力に触れた人が、きっとクラシックの虜になってしまうのだろう。
正直なところ、私は「第九」があまり好きではなかった。大袈裟すぎる、というのがその理由だ。しかし、「大袈裟すぎる」と斬ってしまったのは、我ながら愚かだった。なにしろ、この曲は「全人類」への壮大なアピールなのだから。
好きではなかった「第九」を、来月、私がヴィオラ奏者として所属している田園室内合奏団の一員として演奏することになった。
演奏して初めて、私は「第九」が好きになった。各パートがてんでばらばらなことをやっているようで、それがひとつになると荘厳な響きになる。音楽はしばしば建築物に譬えられるが、それがよくわかる。
といっても、私はちゃんとひけるわけではない。プロの音楽家にとっても、「第九」は演奏の難しい曲だ。それを言い訳にするようだが、私には全然弾けないところが何小節もある。
それでもベートーヴェンは演奏していて楽しい。ちゃんと弾けたら、もっと楽しいに違いない。
前段で私は、「第九」について「音符で書かれた哲学書だ」と評した。つまり、すべての音楽がそうであるように、演奏されることで初めて完結する。楽譜の状態では未完成の哲学書なのである。
ということは、演奏がまずいとベートーヴェンの哲学がうまく伝わらないことになる。この場合の「まずい演奏」は、技術的なことだけを指すのではない。「第九」という哲学書をどれだけ理解しているかが問われる。
私たちはそういう曲に挑戦をしている。
(第237回につづく)
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