ベートーヴェンがシラーの『歓喜に寄す』という詩に出会い、後の「第九」となる作品の構想を得たのは、まだ交響曲第1番も書いていない22歳のころだったそうだ。それから大切にずっと温めつづけ、死の3年前にあたる1824年に書き上げて、その年に初演している。
その間に交響曲を8曲つくっているのだから、「第九」はまさにベートーヴェンの音楽人生の集大成といっていい。事実、規模の大きさ、音楽の内容、形式などにおいて、それまでの常識をくつがえす作品となっている。ことに本格的な合唱が付いたことは画期的だった。
合唱付き交響曲は、「第九」以降もあまり作曲されなかった。それだけ「第九」の完成度は高く、多くの作曲家が二の足を踏まざるをえなかった。この高い壁を乗りこえる作曲家の登場は、ずっと後のマーラーやショスタコーヴィチまで待たなければならない。
交響曲は本来、音楽に「言葉」の代わりをつとめさせるものだ。言葉ならば容易に伝えることができることでも、音楽で伝えるとなると相当な苦労を伴う。それを克服した音楽が後世に残ってきたのだし、これからも残っていく。
ベートーヴェンはその「掟」を破って、交響曲に「言葉」をダイレクトに持ち込んだ。当然、批判も受けたに違いない。
「第九」が、「掟破り」などの批判を乗り越えて、後世の人々に広く、そして熱く受け入れられたのは、やはり作品の力強さゆえだ。ベートーヴェンはこの曲にはどうしても合唱が必要だという信念に基づいて作曲したのだし、当然ながら、さまざまな批判に対する覚悟も決めていただろう。
もっとも、ベートーヴェンは批判には慣れていたはずだ。ベートーヴェンは常に先を行き過ぎていて、当時の人々の理解を超えていた。ベートーヴェン自身、「私の作品を正しく理解してくれるのは後世の人々だ」と、はっきり自覚していた。
ベートーヴェン以降の作曲家は、9番目の交響曲を作曲することに対して、とりわけ慎重になった。音楽史上の最高傑作として立ちはだかる「第九」の高い壁を乗り越える勇気も求められた。
実に厄介なものをベートーヴェンは残したものだ。
このように実に厄介な「第九」は、人間がつくりえるもので最高の芸術を示してくれる。また、これを演奏し、これを聴くことで「崇高」の意味を教えてくれる。
(第238回につづく)
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