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◆ 第250回 この世ならぬ喜びの音楽(マーラー:交響曲第4番) (13.June.2011)

 ダニエル・ハーディング指揮、マーラー・チェンバーオーケストラのコンサートを聴いてきた(6月7日、オーチャードホール。午後7時開演)。
 プログラムはマーラー作曲の『子供の不思議な角笛』より「むだな骨折り」、「この世の生活」、「ラインの伝説」、「美しいトランペットが鳴り響く所」、「だれがこの歌を作ったのだろう」、そして交響曲第4番。
 ソプラノはモイツァ・エルトマン。

 いいコンサートだった。
 清々しく、また瑞々しく、そしてどこか厳かな雰囲気さえあった。
 交響曲第4番についてのみ、感じたことを書いておこうと思う。
 交響曲第4番は室内楽を想わせる響きをところどころで感じさせる作品だ。4楽章構成だが、古典的なそれではない。交響曲に声楽を積極的に取り入れるマーラーらしく、第4楽章にはソプラノ独唱が入る。
 この作品、CDでは第4楽章が何とも物足りなく聴こえる。軽快な第1楽章、怪しげな第2楽章、アダージョの作曲家マーラーの面目躍如たる第3楽章をしっかりと受けとめて、第4楽章で大団円を迎えなければならないはずなのに、消え入るように終わってしまうからだ。

 ところが、今回、生でこの作品を聴いて、私が間違っていたことをはっきりと悟った。第4楽章は「付け足しにすぎない」と解説している本もあるが、決してそんなことはない。マーラーが伝えたかったことは第4楽章にある。第1楽章から第3楽章は、第4楽章のための助走、心の準備だった。

 マーラーから直接教えを受けたブルーノ・ワルターは、この作品を「この世ならぬ喜びの音楽」と評している。本当にそんな音楽だ。しかし、お祭りの騒ぎの喜びではない。人の喜びは常に悲しみと表裏一体をなしている。その表と裏の両面を、これほど美しく描いたものは、音楽はもちろん、音楽以外を見回してもそう多くはないだろう。

 第4楽章をモイツァ・エルトマンが、そのマイルドなソプラノで切々と歌いあげ、オーケストラが鳴り終わった後もなお、ハーディングは指揮する手を胸元に上げたまま、しばらく動こうとしなかった。
 音は終わっても、心の内の響きはまだ続いている。静寂の中で、その響きを聴衆とともに味わっているかのような後ろ姿だ。
 が、一人の粗忽者が「ブラボー!」と声を張り上げた。すかさず、横から「シーッ」と制する声がし、再び静寂が訪れた。
 やがて、ハーディングの手が完全に下りた。
 会場から嵐のような拍手が起きた。
 拍手はなかなか鳴りやまず、ハーディングとエルトマンは何度も何度もステージに呼びもどされた(アンコール曲はなかった)。

 ところで、ハーディングは3月11日にも日本にいた。新日本フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会で指揮をしたのだ。つまり、来ていただいた聴衆のためにコンサートを中止しなかった。
 そして、「帰宅難民」となってホールで一夜を過ごさなければならなかった人々としばし時を過ごしたという。
 それだけに、今回の公演にも深い思いを抱いていたのだろう。

 マーラーの4番というプログラムは、もちろん震災前に決まっていた。
 4番でよかった、と思う。
 マーラーの楽曲にはどれも死の影がつきまとっている。第4番にしても、そうだ。けれども、第4番はそれがストレートな形であらわれていない。
 あらゆる意味で疲弊しているこの時期に、天上の美を伝えるかのような第4番が演奏されたことに何か運命的なものさえ感じないではいられない。

◆このごろの斎藤純

〇ロードバイクで田植えの終わった田圃地帯をサイクリングした。以前は農家の朽ちた納屋に対して「あんなものをいつまでもほっておいて、景観が損なわれる」と思ったものだが、今はそれさえ愛しい。人々が連綿と生きてきた証がそこにある。 何もかも流された沿岸を見てから、ものの見方が変わってきたようだ。

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏第1番を聴きながら