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◆ 第281回  風の画家 高橋和の世界(9.OCT.2012)

 しばしば「抽象画はよくわからない」という声を聞く。「抽象画は難しい」ともよく言われる。
 確かに風景画なら「森だな」とか「建物だ」と容易にわかる。人物画なら「怖そうな老人だ」とか「きれい女性だ」と、見ただけでわかる。
 一方、抽象画には人も風景も描かれていない。だから、「わからない」と思ってしまう。
 けれども、たとえば私たちは「風」を見ることができるだろうか。私たちは、風に揺れる木の葉や波紋など風による効果でしか風を見ることができない。
 抽象画家は見えないはずの風を絵にする。高橋和さんの「風」シリーズは、見るものに確かに風を感じさせる。
 どうやら、ここで大切なのは「感じる」ことであって、「わかる」ことではないようだ。
 改めて、ちょっと考えてみたい。「わかる」とはどういうことなのだろうか。
 風景画、静物画、人物画を具象画という。何が描いてあるか、すぐにわかる絵だ。風景画を見て、「木だ」とか「山だ」というのは、早い話、子どもでもわかる。
 けれども、その「わかる」がクセモノなのだ。果たして画家が描こうとしたのは、「木」とか「花」という「子どもでもわかる」ものなのだろうか。
 たとえば、19世紀のパリの公園を描いた作品がある。着飾った紳士淑女が公園を気持ちよさそうに散歩している。ひとりの女性が自転車の傍らに立って、談笑している。そういう絵だ。
 この絵を見れば、ここに記したことは誰でもわかるだろう。けれども、もう少し探究心を働かせると、その時代は女性が自転車に乗ることが相当な冒険、あるいは挑戦だったことが判明する。
 すると、ごくあたりまえのように思えた情景が、別の意味を持ってくる。
 この例のほかにも、バロック美術などは聖書の知識がないと本当のところはわからないわけだし、描いたものに隠れた意味を持たせていたマネなどの例もある。つまり、描かれたものを「花だ」とか「人だ」というのは、わかったつもりになっただけで、実のところ少しもわかっていないということが、決して珍しくない。
 だから、何が描いてあるのかわかる具象画のほうが厄介だと私などは思う。よほど勉強しておかないと本当の意味がわからないからだ。
 その点、抽象画は聖書の知識や自転車の隠れた歴史なんてものを知らなくても、まったく不自由しない。こちらの自由な発想で見ることができる。だから、楽しい。
 と、ここまでは前置きである(長い!)。
 本展では高橋和さんの60年余りにわたる画業の、ごく初期の作品から最近作まで見ることができる。その中には海外でのスケッチや、人物画、雑誌の仕事の挿絵などもある。いずれも、絵の裏側に堅牢な骨組みを感じさせる作品だ。こういうしっかりした土台があってこそ、その後の抽象画の世界が開けたのだろう。
 抽象画は、一見、画家がでたらめに絵の具を塗りたくっただけのように見えるかもしれない。が、それでは見るものに何も感じさせはしない。
 高橋和さんの絵を前に、目を自由にさせる。解放された目は、心の扉も開く。その瞬間、絵を見る楽しみと喜びに包まれていることに気がつく。
◆このごろの斎藤純
〇頸椎ヘルニアに悩んでいると書いた後、この連載の担当者から、ある整骨院を紹介していただき、行ってきた。正直、半信半疑だったが、痛みがかなり軽くなった。自転車に乗れるようになったので助かる。
〇今年も残すところ3か月。何だか8月から突如として10月になったような気がする。
ヘンツェ:交響曲第1番を聴きながら