初冬の京都を、ほんの少しだけ、うろついてきた。京都は初めてだ。
正確には三年前(2000年)、京都国立博物館で開催中だった〈伊藤若冲展〉を見るためにツーリングの途中に立ち寄ったことがある。けれども、2時間ほどかけて展覧会を見たらすぐに大阪に向かって出発したので、これは京都に「行った」うちには入らない。
今回は季刊誌〈BMW BIKES〉来春号の取材ツーリングだ。盛岡ではオートバイなんて、とんでもない話だが、京都ではまだ充分に乗れた。現地の人たちは「寒い寒い」と凍えていたが、まったく寒くはなかった。
京都を歩いて気がついたのは、女性の服装がとてもシックなことだ。年齢に関係なく、茶か黒のものしか身につけていない。原色のジャケットやコートなどは見なかった(帰ってきて、茶道の心得のある妻にその話をしたら、京都の人は着物の趣味も渋いそうだ)。もうひとつ気がついたのは、街のあちこちに「世界文化遺産指定」という看板が出ていることだ。8年前に指定されているのだが、僕は世界自然遺産とか世界文化遺産という指定には意味がないと思っているので(むしろ、愚かだとさえ思う。地球全体が自然遺産であり、文化遺産なのだから)、看板を見て「そうだったな」と改めて認識したようなしだい。世界文化遺産として登録されているのは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、教王護国寺(東寺)、清水寺、比叡山延暦寺、醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺(苔寺)、天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、龍安寺、本願寺(西本願寺)、二条城の17寺社だ。
何百もある寺社のうち、これらが選ばれた理由はよく知らないが、周囲の風景の保存状態なども考慮されたらしい。それにしては、銀閣寺下に軒を並べるお土産屋などは原宿を真似たもので醜悪そのものだが。ま、しかし、これだけ歴史的な木造建築が残っているところは他にあるまい。これはやはりひとつの奇跡と言っていい(太平洋戦争中、アメリカ軍が奈良と京都には貴重な文化遺産があるから爆撃しなかったというエピソードを思いだした)。逆説めくが、世界文化遺産などという折り紙に頼らずとも京都は充分に京都である。
その奇跡の京都で、もうひとつの奇跡を体験してきた。京都国立博物館で開催中(1月13日まで)の『大レンブラント展』に行ってきたのだ。
各国からレンブラントの選りすぐりの作品をおよそ50点も集めた、世界でも最大級の展覧会だ。
数で言えば、僕はニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリで合計50点を超えるレンブラントを見ている。そのうち数点が今回も展示されているので、全部で100点ほど見たことになる。それでも、レンブラント全作品のごく一部だ(日本では熱海のMOA美術館に自画像が一点ある)。
ちなみにインターネットで調べてみたら、20世紀初頭にはレンブラント作とされる作品が1000点以上あったという。そのなかには贋作もあったが、研究によってレンブラント工房の存在が明らかになった。つまり、レンブラントは弟子を抱えて注文に応じていたのだ。その結果、レンブラント様式で弟子が描いた作品の多くが、かつては「レンブレント作」として通用してきた。
そこで研究者は、レンブラント作とされてきた作品を鑑定し、三つのランクに分けた。Aはレンブラントだけによる作品、Bは判断を保留したもの(弟子の絵にレンブラントが加筆したものもこれに含まれる)、Cはレンブラントの作ではないものとした。
この研究を行なったレンブラント・リサーチ・プロジェクトによると対象となった280点のうち、Aは146点、Bは12点、そしてCは122点と選定された。
もっとも、この判定も決定的なものではないという。
それにしても、昨日までレンブラントの作品として、みんなが崇めてきた作品が、突如としてレンブラントの作品ではないと判定されたとき、その作品を崇めてきた人は精神的にどんなダメージを受けるものだろうか。
レンブラントは若いうちから画家として成功をおさめ、大邸宅も手に入れ、絵画のコレクションでも名を成し、美しい妻サスキア(莫大な遺産を相続した金持ちでもあった)を得ている。が、結局は破産するし、妻にも先立たれるし、子供たちは成人前に亡くなるし、たった一人成人した子供もやはり亡くなるという孤独な半生を送った。
レンブラントは注文に応じて、絵を描くことを仕事としていた。要するに自分の好きなように描くわけにはいかない。画家の自由な創作が認められるようになるのは、まだずっと後のことだ(音楽の世界でもそれは同じで、レンブラントが生きた時代は宮廷か教会に雇われて、雇い主のために音楽を書いたり演奏したりした)。
にもかかわらず、レンブラントの作品には自己が投影していることを、今回の展覧会では教えてくれる。レンブラントは何を描いても、自己を反映させないではいられない画家だったのだ。そういう意味では、19世紀に登場する印象派の画家たちを先取りしていたと言っていいのかもしれない。
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