◆第133回 テノールとリュートの調和(2.october.2006) |
「ポプラの林に行ってきた 〜ふたつのロゼッタに響くルネサンスのうた〜」
9月24日 午後6時開演 日本キリスト教団内丸教会
長尾譲(テノール)、井上周子(アーチリュート、ルネサンスリュート)、遠藤幸恵(ルネサンスリュート)
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上野の国立西洋美術館で開催中の「ベルギー王立美術館展」に、〈音楽-夫婦の調和の寓意〉という作品があった。絵の中に「よく調律されたリュートでは弦が互いに共鳴しあうのと同様に、調和のとれた結婚ではふたりの心が共鳴しあう」とラテン語で記されている。これを描いたテオドール・ファン・テュルデンはリュートという楽器の特質をよく知っている(ただし、描かれているのはテオルボだが)。
盛岡では珍しいリュートを聴けるコンサートがあった。このコンサートは地元盛岡で活動されている遠藤さんの尽力で実現したもので、ヨーロッパで古楽を専門に学ばれ(しかも、優秀な成績を修められ)、精力的にコンサート活動をなさっているお二人をお招きした。とても聴き応えのある内容だった。
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〈プログラム〉
[1] F. ボシネンシス (16c初) : リチェルカーレ *
[2]F. ボシネンシス : 私の星が振り向いたら
- アルプスの娘の美しさ。この盲目の恋心を吐き出すために、野原や山で、幾千回も歌おう
[3]C. ジャヌカン (1485頃-1558) : この5月
- この五月、美しい朝、私は目覚め、恋人に会いに行く。
そして服を脱ぎながら彼にキスをしよう。
[4]作曲者不詳 : いとしい人よ、私は愛を運ぼう
- 貴女への愛を喜んでお見せしましょう。
そして、この報われない愛の苦しみを貴女に伝えたい。
[5]M. ダクィーラ : リチェルカーレ *
[6]J. del エンシーナ (1468頃-1530頃) : あぁ、なんと悲しいことか
- 市場であったシニョーラは私を愛の虜にする。
そう、また今回も、愛の神が勝利をおさめたのさ。
[7]C. セルミジ (1490頃-1562) : ああ、私は不運に嘆く
- ああ、私は不運に嘆く。愛することは苦悩だけ。
この心を私を煩わせるあの女に見せておくれ。
[8]J. A. ダルツァ (1508頃活躍) : カラータ *
[9]B. マリーニ (1587-1663) : 私の美しい太陽は遠ざかり
- 私は光も差さないこの森の中で生きる。心無くして僕が生きているのならば、それは愛の奇跡といえるだろう。
[10]A.ボエセ (1586-1643) : 楽しいこと、うれしいことのために
- 楽しいこと、うれしいことのために時間を節約しなければならない。
そして愛に、喜びに、人生の素敵な日を費やそう。
[11]G. カプスペルガー (1580-1651) : トッカータ *
[12]C. モンテヴェルディ (1567-1643) : あぁ、私は倒れる
- また、懲りずに恋をしてしまった。彼女の甘い言葉澄んだ顔、愛嬌たっぷりの眼差しは私の心を捕らえて離さない。
[休息]
[13]M. ランベール (1610頃-1696) : あなたはいつも私を冷たくあ しらい、不安にさせる
- 魅力的なこの苦しみ、これ以上幸せなら悦びに死んでしまいそう。
[14]J. イダルゴ (1612頃-1685) : 恋いこがれ、死に、感じて、待ち望む
- 私の永遠の愛の重さゆえに、苦しみの中へと入っていく。
恋いこがれ、死に、感じて、待ち望む。
[15]J. アラネス (17c) : チャコーナ
- 私の愛しい人よ、アルマダンの結婚式にでかけよう。ドン・ ベルトランの舅と
オルフェオの姪っ子は、ギネーオを踊り始めたよ。ヴィヴァチャコーナ!
[16]C. モンテヴェルディ: 恋の悩みはこんなに甘く
- あのつれない心が愛の炎を全く感じず、憐みを拒むなら、いつかは後悔してやつれ果て、私に溜息をつくことになるだろう。
[17]J. バスケス (1510頃-1560以降) : ポプラの林に行ってきた
- 母さん、ポプラがそよ風にゆれるのを、かわいい恋人と見てきたよ
[18]作曲者不詳 : ディンディリン
- 晴れやかな朝、一羽のウグイスが枝の上で歌っていた。
「ウグイスさん、私のお使いをしてちょうだい私はもうお嫁に行ってしまった」と
[19]J. del エンシーナ (1468頃-1530頃) : 痛みと引きかえに喜びを
- 痛みと引き換えに喜びを捨てることのほうがましだ。
もしその喜びに愛がないのなら。
[20]F.スピナチーノ : ラ ベルナルディーナ *
[21]O. di ラッソ (1532-1594) : 愛しのマドンナ
- 俺は口下手だから歌を聴いてくれ。もし俺を好きになるなら 一晩中口づけして牡羊のように踊りまくるよ。
ドンドンドン ディリディリ ドンドンドンドン
[22]F. da ミラノ : ファンタジア *
[23]C. de セルミジ : 花咲く日々に
(*は器楽曲) |
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ご覧のように、ルネサンス音楽とバロック音楽が組み合わされている。
配布されたプログラムにも、歌詞の大意が記載されていた。それだけでもだいぶ助かるのに、歌う前に長尾さんが読んでくださったので、音楽の内側にスッと入っていけた。
いや、長尾さんと井上さんのオーラが、その場の雰囲気を支配して、我々をどこか別の世界に運んでくれたように思う。つまり、音が鳴り出す前から、そこに音楽的な空間をつくる力がお二人にはある。
一見、のんきそうな歌詞もよく見ると、なかなか哲学的だ。たとえば、[14]などは含蓄に富んでいる。それどころか、胸に小さなナイフをあてられたような気さえした
リュートについて、井上さんと遠藤さんによるレクチャーもあった。それによると、もとは中東のウードという楽器で、これが西に渡ってリュートになり、東に渡って琵琶になったという(ギターの先祖ではないという話はいつか書いたことがあると思う)。
また、一口にリュートといっても、時代によって弦の数が異なるという説明もあった。井上さんは[9]〜[12]でアーチリュート(バロック時代の楽器で、とても大きい)を弾き、他はルネサンスリュートを弾いた。
ちなみにロゼッタというのは、リュートの中央の透かし彫りのことだ。これはギターのサウンドホールにあたる。
音量の小さなリュートを聴くのに、内丸教会の響き具合がとても心地よかった。テュルデンの絵ではないが、楽器と会場の調和が感じられた。もちろん、それはテノールとリュートが調和していてこそのものだ。
特にスローバラードの[16]は切なく、甘く、官能的だった。アップテンポの[21]ではある種のヴィルトゥオージティ(名人芸)を堪能した。
実はここに入ったのは初めてだ。
詳細は省くが、宮沢賢治ゆかりのオルガンが現役で使われている。それをいつか見たいと思いつつ、機会を逸していた。
というのも、教会というところは信者が敬虔な気持ちで祈りを捧げる神聖な場所だ。ぼくなどが、のこのこと入っていくのは気が引けてしまう。こういう機会でもなければ一生、見られなかっただろう。音は聴けなかったが、オルガンの姿を見ることができただけでも嬉しかった。
さて、聞くところによると、来年も長尾さんと井上さんは盛岡にいらしてくれるそうだ。心待ちにしたい。 |
◆このごろの斎藤純 |
〇夏の終わりに花粉症に似た症状に悩まされた。ブタクサ、あるいは稲科の植物の花粉にも反応するようになってしまったらしい。春の花粉症だけでも辛いのに、いやはや。
〇岩手公園が開園100周年をむかえた。10月7日(土)午後1時30分から、盛岡劇場メインホールで「岩手公園と盛岡のまちづくり」と題して記念シンポジウムがひらかれる。ぼくが記念講演をつとめさせていただくことになった。入場無料ですので、ぜひ足をお運びください |
魂の窓/ヴィセンテ・アミーゴを聴きながら |
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