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目と耳のライディングバックナンバー

◆第299回 ふたつの若冲展を観る(8.Jul.2013)

 この夏、アメリカから貴重な日本画のコレクションが一時的に「里帰り」をした。
 岩手県立美術館で開催中(7月15日まで)の「東日本大震災復興支援『若冲が来てくれました』プライスコレクション 江戸絵画の人生命」展と、江戸東京博物館で開催中(7月15日まで)の「ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡」がそれだ。どちらも伊藤若冲をメインに打ち出し、人気を集めている。
 私が初めて若冲を観たのは(初めて若冲を知ったのは--と言い換えてもいい)、2000年の「文化財保護法50年記念事業特別展覧会 没後200年 若冲」展だった。この企画展は京都国立博物館だけの開催だった。当時、私は川崎市に住んでいたので、京都までオートバイを飛ばして行った(文字通り飛ばしすぎて免許停止を食らうという苦い思い出がある)。
 凄いものを観た、と思った。けれども、さほど興味は持たなかった。そのころ、私は水墨画に熱中していて、若冲のような装飾性の強い絵に対する興味は薄かった(が、なぜか琳派には惹かれていた)。
 2005年、岩手県立美術館で「京都細見美術館 琳派・若冲と雅の世界」展が開催され、6点の若冲が来た。渋めの作品だったから私は大いに楽しみつつも、若干の物足りなさを感じた。若冲に対する見方が私の中で変化していたようだ。やはり、若冲は「奇想」でなければ。
 奇想派と呼ばれる絵師がいる。自らそう名乗ったわけではない。研究者が後から付けたのだが、奇想派と呼ばれる曾我蕭白や長沢蘆雪らの作品を見れば、この名称がぴったりだとわかる。
 江戸末期、300年もつづく徳川幕府の保守的な武家社会は芸術文化においても革新を嫌い、それによる停滞を招いていた(もちろん、徳川家のお抱えという境遇にぬくぬくしているものもいた。その結果、狩野派は衰退したわけだが)。
 一方、財力をつけた商人は武家社会とは別の独特の文化をつくっていた。それは活気に溢れ、停滞を嫌い、革新を歓迎した。若冲らの活躍には、そんな時代背景があった。
(次回につづく)
〈このごろの斎藤純〉
〇梅雨とは名ばかりで雨が少ない。ロードバイクやオートバイを楽しむには嬉しいが、農家は困っている。冬は雪が多くて弱ったが、うまくいかないものだ。
ブリテン:戦争レクイエムを聴きながら

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