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目と耳のライディングバックナンバー

◆第306回  震災と芸術(『YUKIKO』を見て) (21.Oct.2013)

 坂田裕一さん作・演出の『YUKIKO ~再び、うたを~』を観劇(10月12日土曜日午後7時開演)し、いろいろと考えさせられた。 舞台となっている〈ジャズタイムYUKIKO〉のモデルは、東日本大震災の大津波で流された、陸前高田のジャズの名店〈ジャズタイム・ジョニー〉だ。主人公のユキコは、店主で詩人の照井由紀子さんである。現在、〈ジャズタイム・ジョニー〉は仮設店舗で営業をしている。
 坂田さんは震災後、芝居を書けなくなったという。したがって、本作は震災後初の作品ということになる。
 坂田さんは、震災直後から被災地支援に奔走してきた(被災地に絵本を贈る〈絵本プロジェクト〉や、被災地でピアノを購入して贈る文化支援活動の中心的存在だ))。つまり、被災地の状況をよく知る立場にある。『YUKIKO』に描かれている被災地の人々のやりとりやボランティアのようすなどが、ほとんど事実に則しているのは当然といえば当然だろう。  けれども、よく知っているからこそ、かえってハードルが高く、書きづらい場合もある。被災地の表も裏も描くには、深い葛藤があったに違いない。ジャンルは異なるものの同じ物書きとして、震災後の今を真っ正面から取り上げたことにまず敬意を表したい。
 この作品を、ふたつの側面から考えてみた。
 ひとつは、震災後の今を伝えるツールとしての演劇を考えた。ドキュメンタリー、手記、写真集などさまざまなツールがあると思うが、生身の人間が目の前で演じる演劇は、「語り部」にも通じる説得力がある。
 ただ、被災地を伝える演劇として捉えると、劇中の前衛的な場面に疑問を感じてしまう。実際、演劇を見慣れていない人にとっては(実は坂田さんの真骨頂を示す場面なのだが)、邪魔だったに違いない。
 もうひとつ、「震災を伝える」ということは二の次にして、シンプルに演劇として捉えた場合、この作品にはたくさんの短所があると思う。
 まず、時代が「現代」ではなく、20年~30年前の印象を受ける。使われている楽曲がジャズであることと先述した前衛的な場面が60年代を彷彿させる要因かもしれない。
 次に、登場人物のあいだで交わされる会話が、あまりにストレートすぎて、青臭さを感じた。青臭さとは未成熟という意味も含む。今どき、青臭いというか高校生の弁論大会のようなまっとうな(ひねくれていない)言葉のやりとりを臆面もなくやってみせてくれたことに、ちょっとたじろいだくらいだ。
 演劇に限らず、主張を生のまま出しては逆に説得力がなくなる。たとえば、環境問題を訴える小説で「地球を大切にしようよ」などとは決して書かない。これは演劇でも同じだろう。そういう「生の主張」が随所に散見された。
 しかし、これを「被災地の今を伝えるツールとしての演劇」と見ると、これらのセリフがちゃんと意味を持って、観客に伝わる。
 セリフだけではなく、ストーリーにも青臭さが感じられた。私が選考委員をつとめている『北の文学』で、この作品の結末によく似た小説が入選している。その小説の作者も被災地でのボランティア活動をしてきた方だった。
 なぜ似てしまうのか。それは、ひとつの願望なのだろう。被災地の過酷な現状を知っているから、夢物語のような未来像や将来像はとてもではないが描けない。だから、可能性のある小さな夢を持ってくる。
 小さな夢だが、大きな希望の萌芽でもある。未来への期待感を漂わせて、幕を閉じる。
 会場に明かりがつくと、目にハンカチをあてている人たちがいた。
 『YUKIKO』は震災後の現状に目を向けようとしない人々に観てもらいたい演劇だ。東京公演や大阪公演が実現することを祈っている。
〈このごろの斎藤純〉
〇文士劇の稽古が続いている。久々にシリアスな演劇(『赤ひげ』)だし、演出家が変わったということもあって、稽古もとても充実している。前回にも書いたように私はセリフが多いので気が重いのだが。
デクステター・ゴードン/ワン・フライト・アップを聴きながら

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