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◆第312回  本田健を観る (27.Jan.2014)

 岩手県立美術館で開催中の『冬のみず、山あるき 東島 毅+本田 健』展を観た。いろいろな意味で、岩手県立美術館ならでは企画展だった(2月16日まで開催中)。
 岡山県出身の東島毅は1960年生まれ、山口県出身で現在は遠野の古民家をアトリエにしている(「アトリエにしている」というよりも「暮らしている」と記するほうが相応しいような気もするが)本田健は1958年生まれ。ほぼ同世代の画家だが、プロフィールを見るかぎり、共通点はそれくらいしかない。
 実際、枠を突き破ろうとする奔放な作品の東島毅に対して、本田の作品は枠の中での限界に挑んでいるようなところがある。そんな作品によって、展覧会場には適度な緊張感がみなぎっていた。
 パッと観て、東島毅は「前衛的」で、しばしば「わからない」と言われる現代美術そのものだ(すみません!)。一方、本田健はたいていの方が「わかりやすい」と言うだろう。
 けれども、本当に本田健は「わかりやすい」のだろうか。そりゃあ何が描かれているかは森であったり、瀧であったり、畳だったりと一目瞭然だ。
 では、なぜ一目瞭然なものをわざわざ時間をかけて、描かなければならないのか。
 本田健について少し考えみたい。
 風景写真をもとにして、チャコールペンシルで細密に描いた作品は、拡大したモノクロ風景写真のように見える。本田健は、制作中に自分自身を無にすることを心がけているという。つまり、作品に自己を反映させないようにしている。自己主張のかたまりのような東島毅の作品とは、そういう意味でも対象的だ(対象的な作品の二人を同時に見せることで、それぞれの個性や特性をより鮮明にしようという意図がこの企画展にはあったのかもしれない)。
 本田健は自己を反映させないように意図しているというが、風景を切り取る段階で(あるいは、写真を撮影する段階で)、本田健の好みが反映されるわけだし、さらにはメッセージ性も持つ。
 もちろん、こういう世情にあって、田舎の雑木林を描きつづけるという姿勢そのものが強烈なメッセージでもある(ニューヨークに1年間滞在中、遠野の森を描きつづけていたというのも、いささかできすぎの感さえするメッセージだと思う)。
 制作の姿勢ということに関して、もうひとつ。本田健のそれは修行を想わせる。自我を殺し、写真をもとに、風景をただひたすら白黒の階調だけで描く。それを数ヶ月間もつづける。気が遠くなるような作業だ。
 そんな本田健の作品から(どれからも、というわけではないのだが)私は息苦しさを感じることがある。ただし、これは私の側の問題であり、私の限界でもある。
 それを自覚したうえで、私は本田健の作品と対峙したときの「気が遠くなる」ような感覚に惹かれて、これからも本田鍵を観つづけるだろう。そうしているうちに、いつか、息苦しさも魅力のひとつと思えるようになるかもしれない。
 いずれにしても、東島毅の作品と相まって、岩手県立美術館のあの巨大な空間のテンションを高めるというのは、ただごとではない。原田光館長がしばしば「バカっ広い」と評する岩手県立美術館の空間があってこその好企画である。
〈このごろの斎藤純〉
〇毎年、この時期になると体の緩みが心にも波及するのか、常に睡魔につきまとわれている。更年期障害だという指摘もあるのだが、もう二ヶ月少々の辛抱だと我が身、我が心に言い聞かせている。
フェントン・ロビンソンを聴きながら

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