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目と耳のライディングバックナンバー

◆第321回  弦楽四重奏を聴く (9.Jun.2014)

 弦楽四重奏を水墨画に譬えて、その芸術性の高さを端的に論じたのは、政治学者の故丸山眞男だった。
 丸山は「音楽のなかでもっとも純粋で、内容が高度なのは弦楽四重奏でしょう。弦だけのアンサンブルというのは絵で言えば墨絵かデッサン、モノクロームの世界です。だから高度な精神的内容が要求される。ベートーヴェンのような人の最高傑作が弦楽四重奏になるのは必然と言っていい。管やピアノは色彩の要素でしょう。他の楽器が入ると作曲者はそれの効果に頼ろうとする。面白い曲は出来るけれど、中味がどうしても薄くなる傾向があります」と語っている(中野雄著『丸山眞男 音楽の対話』文春新書)。墨絵というのは、もちろん水墨画のことだ。
 現在、弦楽四重奏の演奏会は少なく、むしろ交響曲を聴く機会のほうが多い(弦楽四重奏に比べて交響曲の演奏会は大きなホールや莫大な経費が必要なのに)。
 そんな中で、ラトゥール・カルテットは5年前の結成以来、固定したメンバーで活動をしてきた。アマチュアでは希有な存在といっていい(もちろん、アマチュアならではの特権ということもできる)。彼らは、東日本大震災を契機に結成された岩手フィルハーモニーの団員も兼ねていて、これもプラスに働いている(別々のオーケストラではなく、同じオーケストラに所属しているのがミソだ)。
 そのラトゥール・カルテットの結成5周年記念コンサートが、もりおか啄木・賢治青春館(盛岡市)と岩手町立石神の丘美術館(岩手町)で行われた。岩手町での演奏会の感想を記しておきたい。
 プログラムは両コンサート共通で、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第7番Op.59-1。これはロシアのウィーン大使だったアンドレイ・ラズモフスキー伯爵の依頼で1806年に3曲セットで作曲されたものの第一番で、通称ラズモフスキー1番と呼ばれてる。ラズモフスキー伯爵は優秀な演奏家を集めた弦楽四重奏団を持っていた。その腕達者のためにベートーヴェンが腕を振るって作曲したとあって、この作品は弦楽四重奏曲の名作中の名作となった。
 もう一曲、チェリストで愛知県立芸術大学名誉教授の天野武子さんをゲストに迎えて、シューベルトの弦楽五重奏曲Op.163。これは1828年、シューベルトが死の2カ月前に完成させた作品だ。一般的な弦楽五重奏はヴィオラを足すが、シューベルトは低音域を際立たせるためになのかチェロを足すという特殊な編成にしている。
 ベートーヴェンとシューベルトには接点があった。ベートーヴェンは27歳下のシューベルトの才能を高く評価していたし、シューベルトはベートーヴェンを崇拝していた(作風はずいぶん異なるが)。国王の葬儀よりも多くの市民が参列したベートーヴェンの葬儀にシューベルトも列席している。そして、ベートーヴェンの死の翌年に亡くなると、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。
 そんなことにも思いをはせながら聴いた。
 まず、ベートーヴェンの密度の高い演奏に息を呑んだ。第1ヴァイオリンの山口あういさんのみごとなリード、包容力と牽引力が際立つ三浦祥子さんのチェロ、そして実はかなりの重責を担う第2ヴァイオリンの馬場雅美さんとヴィオラの熊谷啓幸さんの堅実な演奏と、それぞれがそれぞれの役割を十二分に果たして、この難曲を存分に楽しませてくれた。
 ことに山口あういさんは、ともするとアンサンブルを重視するあまり前面に出ることを躊躇う傾向があるが、この日の演奏は何か吹っ切れたような感じを受けた。
 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の場合(特にこの7番以降は)、ハイドンやモーツァルトの時代のように第1ヴァイオリンが主役で、ほかの3パートは伴奏という形ではなく、あたかも交響曲のようにそれぞれのパートへ重要な役割を与えられている。
 しかも、ベートーヴェンの作品は建物のような構造を持っている。設計図通りに建てないと建物が瓦解してしまうのと同じで、楽譜をかなり読み解かないと音楽にならない。ラトゥール・カルテットはそういう実に厄介なシロモノに挑戦し、美しい建物を築きあげた。
 終演後、この日のゲストで愛知芸術大学名誉教授の天野武子さんも「この難しい曲をよくぞ!」と褒めたたえ、かつての生徒の三浦祥子さんの成長ぶりにとても満足されていた(練習のときはかなり厳しかったらしいが)。
 後半のプログラムのシューベルトがまたよかった。
 この弦楽五重奏は構築性の高いベートーヴェンとはタイプが異なり、歌心とでもいうような感情の表現が求められる。しかも、シューベルトが死の2カ月前に完成させたこの作品には、どこか死の予感や諦念、悲しみと生への感謝(あるいはそれは神への感謝なのかもしれない)が込められている(ように私には感じる)。したがって、ベートーヴェンとはまた違った難しさがある。もちろん、技術的にも難しい。
 チェロが2本という編成だけあって、随所でチェロが活躍する。三浦祥子さんが師匠(天野武子さん)の隣で懸命に弾く姿がとてもよかった。
 ただし、天野武子さんともろに比べられてしまうわけで、音色と音程に課題があることがわかった。
 というわけで、私としてはかなり満足のいくコンサートだった。特にシューベルトの弦楽五重奏は名曲なのに、めったに実演を聴く機会がないから、ありがたかった。
〈このごろの斎藤純〉
〇このところの異常な暑さいったい何なのだろう。いっきに真夏のようになったので体がついていかない。
〇アメリカ4日間の旅を終えて帰ってきたばかりというのに、今度はツーリング専門誌アウトライダーの取材のため信州へ出かけるため一週間ほど盛岡を留守にする。
山口恭子・一ノ瀬トニカ・猿谷紀郎作品集を聴きながら