HOME > 目と耳のライディング > バックナンバー2014
目と耳のライディングバックナンバー

◆第322回  広重ブルーの世界 (23.Jun.2014)

 私は学生時代にちょっとだけ浮世絵を勉強している。選択科目で美術を受講したのだ。教えてくださったのは、浮世絵研究の大家中の大家、故楢崎宗重教授である。
 もっとも、あの当時は「浮世絵は印象派に影響を与えた日本美術」という程度の認識しかなく、あまり興味を持っていなかった。素晴らしい先生が身近なところにいたのに、実にもったいないことをしたものだ(と、後悔しはじめると人生そのものを後悔しなければならなくなるのでやめておく)。
 実はそのころ、私は岡本太郎を知り(正確に言うと、岡本太郎の著書と出会い)、大きな影響を受けた。岡本太郎は、縄文こそが日本の芸術の根源だと説き、「侘寂(わびさび)」なんて軟弱なものは相手にするなと、まあ、そんなようなことをアジテートしていた。私はそれにすっかり感化され、以後、50歳を過ぎるまでそのアジテーションに支配されていたようなしだい。
 それと同時に、江戸文化を避ける姿勢もとってきた。というのも、一般に言われている江戸文化は「徳川幕府時代の日本文化」ではなく、「徳川幕府時代の江戸地域の文化」だからだ。だから、「みちのくの民」である私にはまったく縁もゆかりもない世界のことと、はなから決めてかかっていた。  今も半分くらいはそんな気分が残っているのだが、だいぶ許容度が増してきて、ここ数年は江戸文化(といっても主に絵画だが)を楽しむようになっている。
 ところが、この連載でもしばしば書いているように、今の日本では(特に地方都市では)日本画を観るというような伝統文化に触れる場も機会もひじょうに少ない。日常的に接する機会が多いのは日本画よりもむしろ洋画(油絵)だし、江戸絵画を観る機会よりもフランス印象派を観る機会のほうが多いくらいだ。
 東京はさすがに日本美術専門の美術館がいくつもある。たとえば、浮世絵を観たかったから、原宿にある太田記念美術館を訪れればいい。
 その太田記念美術館で、『広重ブルー 世界を魅了した青』展(4月1日~5月28日)を観た。
 歌川広重が『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などの風景画で見せた大胆な構図は、ゴッホやモネら印象派の画家に大きな影響を与えたことで知られている。
 また、画面を青のグラデーションで覆い尽くす色彩感覚も「ヒロシゲブルー」と呼ばれて絶賛された。
 広重が用いた青色の絵の具は「ベロ藍」と呼ばれる顔料だった。ベロはベルリンがなまったもので、つまり、これはベルリンで生まれている。今日ではプルシアン・ブルーという名称が一般的だ(ほかにもたくさんの呼び名がある)。
 私は下手の横好きで水彩画をときどき描くのだが、プルシアン・ブルーを使うことはほとんどない。この青は自己主張が強すぎて、ほかの色とのバランスをとりにくいからだ。
 広重はこの難しい色を実に巧みに使いこなしている。広重といえば大胆な構図にばかり目が行き、ベロ藍は広重作品にありふれているため見逃されがちだが、この色彩感覚も尋常ではない。
 太田記念美術館では、150年以上も前に描かれたものとは思えないほど鮮やかな広重ブルーを観ることができた。
 ちなみに帰宅後、試しにプルシアン・ブルーを使って描いてみたが、やはりその部分だけ浮いてしまい、絵としてまとまらなかった。
 それはともかく、「江戸文化は江戸だけのもの」などと偏屈なことはいわず、これからもたくさんの浮世絵や江戸絵画を観ていきたいと思っている。
〈このごろの斎藤純〉
〇今月初め、取材で信州をツーリングしてきた。珍しく雨に当たらずにすんだものの、本来は素晴らしい景観がひろがっているはずの山岳道路はどこもガスがかかっていて、カメラマンは「仕事にならない」と嘆き通しだった。
〇12月までのスケジュールをチェックしていたら、いくつかダブルブッキングが見つかって我ながら呆れている。いや、各方面に迷惑をかけることになってしまい、反省しきり。
〇盛岡の演劇界、いや岩手の演劇界を牽引してきた浅沼久さん(舞台音響・照明のアクト・デヴァイスの社長)が急逝された。舞台の仕事をしていた私の祖父、岩手県民会館と盛岡市民文化ホールで働いていた父、そして私はエフエム岩手にいたころと3代にわたってお付き合いいただいた。盛岡文士劇での厳しい演出家としても記憶に刻まれている。年々、淋しくなっていく。
モダン・アート/アート・ファーマーを聴きながら