この展覧会場で不思議な体験をした。どれも初めて観る絵なのに、胸の奥が締めつけられるような懐かしさを感じた。それは、青春時代を振り返るときに伴う切なさにも似ていた。
なぜ、そういう感傷的な気分にさせられたのか。画家の策にまんまとハマッたというだけのことなのだろうか。
そういえば、ロシア民謡にも懐かしさと切なさを覚える。あの独特の哀愁溢れるメロディと重なるものが、この展覧会の絵にはあるようだ(私の知人は「頭の中でずっとチャイコフスキーが流れていた」と言っていた)。
ロシアといえば、長大なロシア文学を連想するが、この展覧会はセンメンタルな詩を読んだ後のような印象が残った。
ロシア美術といえば、ロシア・アヴァンギャルドをまず連想する。それ以前のロシア美術はヨーロッパ中心(もっと言うなら、フランス中心)の美術史的な見方からすると、遅れた美術という偏見と先入観を抱きがちだ。ま、実際にそうなのかもしれないが、学問として絵を観るならともかく、楽しむうえでは「遅れた美術」だろうと先進的だろうとあまり関係がない。
ちょっと脱線するが、アメリカの19世紀美術も「遅れた美術」という扱いを受けていて、アメリカ本国以外ではあまり評価されていない。アメリカ美術といえば、20世紀に入ってからのモダンアートと相場は決まっている。ところが、アメリカのモダン・アートだって一日にして成ったわけではなく、19世紀に盛んだった(民衆からも支持された)リアリズムの伝統の上にある。
話を戻します。
勝手な思いこみにすぎないかもしれないが、私は北方的なものに惹かれ、共感する傾向がある。絵画に限らず、音楽を聴くときにもそれが言える。
北方的なものとは何なのか。リアリズムとロマン主義というキーワードが思いつく。本展覧会で見られるロシア美術の多くは、絵画の向こう側に「詩」や「物語」を感じさせる。同様のことを私は、やはり北方芸術というべきフリードリヒらのドイツ・ロマン主義の作品にも感じる。
いや、こういう理屈はホントのところ、どうでもいい。私だって、後から展覧会を振り返っていろいろ考えたわけで、絵を前にしているときは何も考えていない。
絵を観ているときに働いているのは目だけではない。よく五感という言い方をするが、私は皮膚感覚を大事にしている。音楽を聴くときもそうだ。だから、皮膚感覚に訴えてこないものに私は少々冷たいかもしれない。
本展で展示されている75点(内50点が日本初上陸)は、トレチャコフ美術館が所蔵している10万点の収蔵品のごくごく一部にすぎない。ロシアのモナリザとも賞されるクラムスコイの『忘れえぬ女』などの名品揃いだが、「やっぱり、モスクワに行ってみたいなあ」と溜息をつきながら岩手県立美術館を後にした。 |