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◆第140回 第九の力(岩手県民オーケストラ定期演奏会)(8.january.2007)

第58回岩手県民オーケストラ定期演奏会
「クリスマスイブに贈る第九演奏会」
12月24日(日)午後2時開演 岩手県民会館大ホール

 今村能指揮の岩手県民オーケストラ(以下、県オケと省略する)と岩手県合唱連盟によるベートーヴェンの第九を聴いた。まだ興奮の余韻に酔っている状態だが、気を鎮めて振り返ってみよう。

 本連載の第9回に第九のことを書いている。第九を生で聴くのは、あれ以来だから、5年ぶりだ。
 第9回にも書いているけれど、ぼくは第九が苦手だ。ベートーヴェンの大仰さにはどうもついていけない。
 と思っていたのだが、去年、田園フィルハーモニー・オーケストラで交響曲第6番「田園」を弾いてから、ベートーヴェンに対する見方がいろいろと変わった。

 さらに、今年、青木十良氏(第136回参照)の「ベートーヴェンは日本の水墨画と同じもの。シンプルで、深い」というお話をうかがって大きく感化された。
 そういう変化がぼく自身にあったわけだが、そのせいかどうか、第九を聴いて初めて涙を流した。

 まず、一曲めの交響詩「レ・プレリュード」のことから書いていこう。これは、リストが残した13曲の交響詩のうちの代表作。というか、13曲のうち、これしか演奏される機会がないという。他の交響詩もいいのに、なぜか人気がないようだ。

 この日は、ゆっくりめのテンポの演奏だった。そのせいか、各セクションのつながりがばらばらになりがちで、結果的に見通しが悪い音楽になっていたように思う。あるいは、各セクションのつながりが悪いので、よけいに遅いテンポに聴こえてしまったのかもしれない。

 休息をはさみ、この日のために松田晃氏の指導のもとで練習を積み重ねてきた200名に及ぶ大合唱団がステージに登場する(合唱がはじまる第四楽章まで立ったまま待つ場合もあるが、今回は着席した)。次いで、県オケが配置につく。
 第一ヴァイオリンが下手(指揮者の左側)、第二ヴァイオリンを上手に配する対向配置だ。間にチェロ、ヴィオラが入る。コントラバスは第一ヴァイオリンの後ろ、金管楽器が第二ヴァイオリンの後ろ、木管が正面後ろにつく。ステージに収めるための策なのか、大ホールの響きを考慮した配置なのか、そのへんのことはぼくもよくわからない。

 指揮者は準備が遅れたのか、妙に待たせて登場。この間の悪さはステージ上の演奏者にとっても、客席の聴衆にとっても益するものは何もない。意図したことだったとしたら、明らかに「外れ」だ。不可抗力なら仕方がないけれど。

 しかし、はじまってしまえば、引き締まったシャープな演奏を聴かせる。
 「やるなあ、県オケ。今村さんの指揮にちゃんと応えている」
 そう思いつつ聴いた。
 ただ、じょじょに単調な印象が強くなっていった。第3楽章でも危なっかしいところがあった。
 それでも、何とか指揮者の要求に応えていた。

 そして、第四楽章を迎えた(ここで「おや」と思った方が客席にも多かったことだろう。ステージ上にソリストの姿がないのだ。合唱団に混じっているのだろうか、とぼくは推測した)。
 県オケの演奏に合唱が加わったときの興奮と感動をどう言ったらいいだろうか。ぼくは涙が止まらなかった。
 「何の涙なんだろう? きっと嬉し涙だな」
 そんなことを思ったのは演奏が終わって拍手をしているときだ。演奏を聴いているあいだは、ただただ感激していた。

 いよいよソリストの登場が近づいてきた。すると、何と上手の袖からソリストの高橋織子(ソプラノ)、菅野祥子(アルト)辻秀幸(テノール)、米谷毅彦(バリトン)が駆け足で登場した。しかも、それぞれ19世紀風の衣装をつけている。
 ステージ中央に立つと同時に歌いはじめた。

 みなさん素晴らしい歌声だった。特に、ソプラノの高橋織子さんがよかった。透明感があり、よく通るのに全然キンキンしない。この人で「トスカ」を観たいと思った(11月3日に盛岡市民文化ホールで観たハンガリー国立歌劇場の「トスカ」のソプラノが、ただただキンキンした声で、がっかりしたものですから)。

 ソリストの登場は意表をつく演出だったが、賛否両論あるようだ。
 あれはあれでぼくは楽しいと思ったが、歌い終えるとひっこんでいき、また出てきて歌うというのは煩わしかった。いちいちひっこまずに、登場したままだったらよかったのに。

 もっと厳しい意見の人もいた。あんなことは決してやるべきではないというのだ。そういう意見もぼくはよくわかる。
 指揮者とオーケストラは「集中力がそがれる。全楽章通して、はじめて一曲として完結する」という理由で楽章間の拍手を禁じてきた。その流れからいくと、今回の演出は交響曲にあるまじきものといわなければなるまい。

 さて、今回の演奏会は、岩手県民会館の指定管理者である岩手県文化振興事業団が主催した。同事業団は県オケとの協働を進めており、今回はその大きな成果だ。なにしろ、チケットは完売。あんなにぎっしり埋まった県民会館もぼくは久しぶりに見た。そういう意味でも記念すべき演奏会だった。同事業団はまた『白鳥の湖』(第130回参照)も成功させている。

 演奏後、客席からの心のこもった拍手に指揮者の今村能さんとソリスト、県オケは何度も頭を下げた。最後は客席からステージへ、ステージから(素晴らしいお客さんで満員の)客席へ拍手。ぼくは涙腺がすっかり弱くなって、ここでもまた涙してしまった。

 ベートーヴェンはいい曲を残してくれたものだ、とつくづく思った。

 年末に第九をやるのは日本独特のものといわれているが、もともと北ドイツでも12月に第九がよく演奏されていて、それが日本に持ち込まれて定着したのだという。
 交響曲の中の交響曲であるベートーヴェンの第九の演奏会を国民的行事にしてしまった日本の国民性をぼくは面白いと思う。

追記:実は「ヴィオラが足りないから入って。大丈夫、弾けるところだけでいいから」といわれて、一時、その気になったんですが、楽譜を見て青くなり、辞退しました。
本音を言うと、田園フィルの「メサイア」と文士劇がなければ、これ一本に絞って挑戦したかった。

◆このごろの斎藤純

○あけましておめでとうございます。みなさんのおかげで、この連載も何と140回を迎えました。県外からのアクセスも多いと聞いています。これからも岩手から、文化を発信しつづけたいと思っています。ごひいきのほど、よろしくお願いします。

アンドレス・セゴビア1944年アメリカ録音集を聴きながら