HOME > 目と耳のライディング > バックナンバー2014
目と耳のライディングバックナンバー

◆第324回  幻想交響曲を聴く (22.Jul.2014)

 本物っていいなあ!
 このコンサートを聴いた後(いや、実際には聴いている最中も)、心底、そう感じた。岩手県民会館大ホールで7月9日に開催された『いわぎんスペシャル フランス国立リヨン管弦楽団』コンサートでのことだ。指揮は同管弦楽団音楽監督のレナード・スラットキン……割と「通好み」の巨匠といってもいいかもしれない。
 本物っていいなあ、というのは『幻想交響曲』を聴いての感想だ。この曲はCDでしか聴いたことがなかった。なにしろ100人を超す大編成のオーケストラが必要なので、首都圏ならともかく、地方都市ではまず聴く機会がない。
 私はいつも「CDでは本当の音楽を聴いたことにはならない(特にジャズとクラシックの場合は)」と言ったり書いたりしているのに、この主張とは裏腹に(というか、うっかりと)『幻想交響曲』をCDで聴いただけで、わかったつもりになっていた。
 この日、生で聴いて、今までCDで聴いてきたのは『幻想交響曲』とは似て非なるものだとさえ思った。それほど違うものだった。
 何が違うかって、まず迫力が違う。そりゃあそうだ、100人超のオーケストラが管も弦も盛大に鳴らすのだから、いくらCDの音がいいといってもかなうわけがない(これは、音量ではなく、音圧のことだ)。
 また、第5楽章では打楽器群の大活躍ぶりが印象的だった。打楽器によるホールの空気の振動というのもまたCDではなかなか再現できない。
 だからといって、この日の演奏が「迫力」で押し通すものだったかというと、それは違う。いや、全然そうではない。たとえば、第三楽章の前半は「フルオーケストラによる室内楽」の趣があり、これもCDではわかりえない微妙なニュアンスが伝わってくる演奏だった(CDは均等化、均一化されがちなため、音の強弱は表現できるが、音圧まではなかなか表現できない)。
 では、『幻想交響曲』についてちょっとおさらいをしてみよう。
 この曲はベルリオーズが27歳のときのデビュー作だ。舞台女優のハリエットに一目惚れをし、ふられてしまった体験がもとになっている。第二楽章までは「甘い恋」が奏でられるが、第三楽章から「失恋の痛み」、「苦しみから逃れるためにアヘンに溺れ、ついには片思いの恋人を殺してしまう悪夢をみる。夢の中で主人公(ベルリオーズ)は地獄をさまよう」という情景が音楽で表現される。このヘンテコな物語を交響曲にしてしまったのだから、ベルリオーズの才能がわかろうというものだ。
 『幻想交響曲』に限らず、ベルリオーズは物語を交響曲にするのを好んだ。『イタリアのハロルド』はイギリスの詩人バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』にインスパイアされた交響曲で、ヴィオラ協奏曲といってもいい作品だし、『ロミオとジュリエット』はご存じシェイクスピアの戯曲を題材にした交響曲という具合だ。
 ベルリオーズは遅咲きの作曲家だった。たいていの作曲家は幼いころから才能を開花して「神童」と呼ばれているが、ベルリオーズが本格的に音楽を勉強しはじめたのは20歳になってからだった(ベルリオーズは作曲家にしては珍しくピアノを弾けず、作曲のときはギターを使っていたらしい)。
 にもかかわらず、管弦楽法(オーケストレーション)を大いに発展させた。ベートーヴェンの30歳下にすぎないが、ベルリオーズの音楽は後期ロマン派(あるいはその後のマーラーさえ想わせる)を先取りしている。
 スラットキンの指揮はこのベルリオーズの近代性を際立たせるものだった。リヨン管弦楽団は『幻想交響曲』ではもちろんのこと、ラヴェルのバレエ組曲『マ・メール・ロア』でも『ボレロ』(この曲でスラットキンはほとんど指揮らしい指揮はしない)でもフランスのオーケストラならではの華やかさを存分に聴かさせてくれた。
 アンコールには、ビゼーの『カルメン』から間奏曲と、スラットキンの父親が編曲したという『カルメン』の「アメリカン・バージョン」が演奏された。後者はカントリー&ウェスタン風のヴァイオリンが愉快な曲だった。
 繰り返しになるが、『幻想交響曲』ほどCDと実演が差が大きい音楽もそうはあるまい。このコンサートはそういう意味でも私にとって大きな音楽体験だった。
〈このごろの斎藤純〉
〇早池峰山に登ってきた。あいにく山頂はガスに覆われて眺望はよくなかったが、気持ちのいい登山日和だった。ハヤチネウスユキソウをはじめ、高山植物がたくさん咲いていた。
〇今年は春のサクラにはじまって、モクレン、コブシ、フジ、キリ、クリ、ネムノキと樹木が花盛りだ。
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第15番を聴きながら

ブログ:〈続〉流れる雲を友に