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目と耳のライディングバックナンバー

◆第326回  異色の美術家・鎌田紀子ワールド (25.Aug.2014)

 岩手町立石神の丘美術館で開催中の『鎌田紀子ワールドへようこそ』展は、以前からやりたいと思っていた企画だった。やりたいと思ってはいたが、あまりに特殊な世界なので、なかなか踏み切れずにいた。鎌田紀子さんがつくる人形は、決してとっつきのいいものではない。
 検討を重ねた末、昨春、この企画展が決まった。昨夏、横須賀美術館で開催された『日本の妖怪を追え! 北斎、国吉、芋銭、水木しげるから現代アートまで』に鎌田さんの作品が出品され、先を越されたような形になった。
 先は越されたが、私は横須賀美術館とは異なる視点で鎌田作品を捉えていたので、逆に「ぜひやらなければ」という思いを強くした。というのは、鎌田さんの作品を「妖怪」とくくることに私は躊躇いを覚えるし、ささやかな反発を感じないでもない。
 鎌田紀子さんの作品は、確かに一見、化け物であり、妖怪といえないこともない。「石神の丘美術館がお化け屋敷になった」という声も聞かれる。
 私も最初はただ不気味だとしか思わなかった。やがて、かわいいところもあると感じるようになり、今では畏敬の念さえ覚えるほどだ(こうなるまでに3、4年ほどかかったことになる)。
 日本では昔から幽霊や妖怪などの化け物が屏風絵、掛け軸、襖絵、浮世絵(版画と肉筆)などの題材にされてきた。鎌田さんの作品はその系譜につらなるものという見方をしたのが、横須賀美術館だろう。ここで私が小さく首を傾げるのは、それらが民間伝承や物語などに登場する化け物や妖怪であるのに対して、鎌田さんの人形は独自のキャラクターという違いがあるからだ。
 鎌田さんの人形は「怖い」だけではなく、どこか「かわいい」と感じさせる。しぐさ(ポーズ)や表情に純粋さと天真爛漫さが見られるからだ。
 かわいいと感じたら、あともう数歩で鎌田ワールドが持つもうひとつの魅力に触れることができる。それは、「聖人」あるいは「賢者」という側面だ。
 鎌田さんの作品には、そこはかとない哀しみが漂っている。それは、私たち人間が抱え持つ哀しみを代わりに(あるいは、一緒に)背負っているようにも見えるし、私たち人間の愚かさを嘲笑うのと同時に哀しんでいるようにも見える。それこそ聖人の姿勢にほかならない。
 美術史をひもといてみると、洋の東西を問わず、画家(日本では絵師)たちは聖人(あるいは賢者)をあえて醜く描いてきた。
 たとえば、中国の孤高の詩人に材をとった『寒山拾得図』は多くの画家(絵師)によって描かれているが、最も有名な曾我蕭白の作品では寒山が醜く描かれている。曾我蕭白は鉄拐という仙人もひどく醜く描いている。
 一方、ヨーロッパでは聖書に材をとった宗教画に、醜く(醜いというのは主観なので、そう感じない人もいると思うが)描いた聖人を見ることができる。
 ついでに、これは妖怪でも聖人でもないが、16世紀ウィーンの画家アルチンボルトは、植物・魚介類・果実などを組み合わせて人物の顔を描いた。ひどく不気味な絵だが、当時の自然科学の知識に裏付けられているのだという。ちなみに、アルチンボルトの手法は浮世絵にも影響を与えていて、歌川国芳の『人をばかにした人だ』などの作品がある。
 何はともあれ、鎌田紀子さんの作品を美術史の流れに置くと、上記のように捉えることができるのではないだろうか。
 鎌田紀子さんは青森県出身、岩手大学特設美術科で彫刻を学んだ後、盛岡を拠点に創作活動をつづけている。彼女のような異才が北東北から生まれたことに留意しつつ、今後も注目していこうと思っている。
〈このごろの斎藤純〉
〇過日、八幡平を越えて田沢湖をまわるロングサイクリング計画を雨のために延期した。実は先月も下北ツーリングを雨のために断念している。どちらも一ヶ月以上前から計画していたのに、狙っていたように雨が降るのだから、私の雨男ぶりもさらに磨きがかかってきた(涙)。
エリック・ジョンソンを聴きながら

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