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目と耳のライディングバックナンバー

◆第348回 ロシアの魂を聴く (21.Jul.2015)

 いやあ、凄かった。何が凄いって、ロシア国立管弦楽団によるチャイコフスキーの三大交響曲(交響曲第4番、第5番、第6番)一挙演奏というコンサート。それはもう鬼気せまるというか妖気漂うというか、尋常ならざるものだった(2015年7月15日、盛岡市民文化ホール大ホールにて)。
 歴史ある同楽団を率いるヴァレリー・ポリャンスキーは「爆演型」という評判の指揮者だ。盛り上がる曲が並んでいるだけに期待も否応なく高まったわけが、いやはや、予想を遥かに上回る爆演ぶりだった。
 チャイコフスキー(1840-1893)が生きた時代は帝政ロシアが大きく揺れ動いた時期だった。そして、チャイコフスキー自身の生活も決して順風満帆というわけではなかった。もっとも、順風満帆だった作曲家のほうが少ないのだが、バレエ音楽『白鳥の湖』、『くるみ割人形』やチェロとオーケストラのための『ロココの主題による変奏曲イ長調』など数々の美しい作品からはその苦悩は伝わってこない。
 その点、今回演奏される「チャイコフスキー三大交響曲」はすべて短調の作品で、憂鬱と切なさに満ちていて、鬱屈したものを感じさせる。それでいながら、春の日差しのような(あるいは、可憐な野の花のような)表情と、ロシア的と言いたいような野放図な熱情という対象的なものを併せ持っている。いや、憂鬱も鬱屈も可憐さも熱情もすべてロシア的といえばロシア的な要素なのかもしれない。
 まず交響曲第4番ヘ短調作品36(1877-78)は、裕福なメック未亡人から資金援助を受けられるようになったおかげでモスクワ音楽院教授を辞し、作曲に専念するようになって最初の交響曲だ。この時期、音楽院時代の教え子との不幸な結婚(一カ月で破局)とそれにともなう自殺未遂などがあった。
 交響曲第5番ホ短調作品64(1888年)はヨーロッパの演奏旅行から帰って、フロロスコエ村の森の中にかまえた新居で作曲されている。チャイコフスキーは旅する作曲家でもあった。指揮に苦手意識があったが、本人の思惑を越えてその指揮は好評で、指揮者としての演奏旅行が盛んになっていったためロシアを離れる機会が多くなった。そのため、交響曲第4番から第5番まで10年も間があいている。第5番の初演は不評だったものの、後にヨーロッパで人気を博した。
 『悲愴』という表題で知られている交響曲第6番ロ短調作品74(1893)は、チャイコフスキーにとって「私の生涯で最も立派な作品」だったが、これも初演は不評だった。
 当時のロシアは貧困が蔓延し、政情も不安な状態だった。チャイコフスキーの最後の交響曲は、そんな世情を反映したものなのかもしれない。この初演の失敗から一月あまり後、チャイコフスキーは病死した(かつては自殺説が有力だったこともあったが、今日では自殺説は否定されている)。
 このコンサートのあった日、日本の国会(衆議院)は、ほとんどの憲法学者が「憲法違反」と断じた法案を可決した。絶望に近い暗澹たる思いに沈んだ私に第6番はなおいっそう重く切なかった。
 ロシア国立交響楽団は、今どき珍しいほど土俗的というか民族的な響きを持っている楽団だ。世界中のオーケストラが無国籍化している中にあって、貴重だと思う。そして、そのオーケストラの魅力を殺さず、大いに活かしたポリャンスキーもユニークな存在だと思う。
 圧倒的な響きに満たされつつ、私は心の片隅で「今までCDで聴いてきたものはいったい何だったのか」と自問していた。チャイコフスキーの三大交響曲などさんざん聴いてきたのに、それらを「無」にするような音楽体験だった。やはり、音楽は生で聴かないと本当のところはわからない。もう充分にそれはわかっているつもりだったが、改めて認識した。
 午後6時30分に始まったコンサートが終了したのは、15分間の休憩が2回あったとはいえ、9時45分。指揮者とオーケストラはいわずもがな、客席の我々も体力勝負のプログラムだった。
〈このごろの斎藤純〉
○公私ともに超ハードだった6月を何とか乗り切り、今月はバンド活動(練習)に熱中しているが、あのハードな日々を乗り越えることができたのは音楽のおかげだと思う。そして、この練習の成果は9月にお披露目できる予定なので、乞ご期待。
フィンジ:ピアノと弦楽合奏のためのエクローグ を聴きながら