
◆第361回 ドイツ・レクイエムを聴く その1 (8.Feb.2016)
ブラームスの最高傑作(と私は思っている)「ドイツ・レクイエム」のコンサートが、来月、盛岡で開催される。今回はその予習をしておき、公演後に感想を記したい。 「ドイツ・レクイエム」はあまり演奏される機会がなく、そのためベートーヴェンの交響曲第9番に匹敵する作品であるにもかかわらず、知名度が低い。岩手で、この傑作をコンサートで聴いたことのある人はそう多くないだろう。この機会にぜひ聴いていただきたいと思い、この蛇足めいた駄文を書くことにした。 |
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「ドイツ・レクイエム作品45」は1868年、ブラームスが35歳のときの作品だ。ちなみに、ブラームスの最初の作品は1851年の「ピアノ・ソナタ第1番作品1」で、最後の作品は1896年の「11のコラール前奏曲 作品122」だ(この翌年に亡くなっている)。 有名な「交響曲第1番 作品68」は1876年、「ヴァイオリン協奏曲 作品77」は1878年、「ピアノ協奏曲第2番 作品83」は1881年だから、「ドイツ・レクイエム」の後の作品だ。「ドイツ・レクイエム」によって作曲家として自信をつけ、次々と名作を生むことになったと言っていいのかもしれない。 |
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この作品は第1楽章~第3楽章が1967年12月にウィーン楽友協会(つまり、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の本拠地)で試演奏されたが、準備不足のため失敗に終わっている。その後、変則的だが第6楽章と第7楽章を完成させて1968年4月に北ドイツのブレーメン大聖堂で初演し、大好評だった。この後、第5楽章が書き上げられ、1969年にライプツィヒで演奏されて大成功を収めた。 が、実はその10年も前の1957年から書きはじめられている。きっかけはシューマンの死だといわれている。 シューマンはブラームスを「天才の登場」と世に紹介した恩師だ。そして、ご存じのようにシューマン夫人であるクララ・シューマンはブラームスが終生、憧れつづけた「想い人」でもあった。 恩師の妻への愛は、ブラームスを常に悩ませた。ブラームスの作品の背景にはクララへの愛が潜んでいる。 |
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「ドイツ・レクイエム」が発表された当時、ドイツは急発展をつづけるヨーロッパ諸国から取り残され、敗北感と焦燥感に満ちていたという。そんな中、この作品によってドイツの人々はドイツがまだ芸術の高みを失っていないことを目の当たりにし、自信を持つようになる。それは、同時期に活躍したワーグナーがドイツの国民的作家となっていったことと重なる。違いといえば、ワーグナーはその風潮を巧みに利用したが、ブラームスはそうではなかった。 | ||||||||||||||||||||
上に簡単に記したクララ・シューマンとブラームスの関係、ワーグナーとの確執などについて書きはじめると、それこそ一冊の本の分量が必要だ。ここでは割愛する。 ここでは、ブラームス自らが「ドイツ・レクイエム」を「人間のレクイエム」と変えてかまわないと言っていたこと、音楽学者のジークフリート・クロスが「もしこの作品に献辞をつけるとすれば、それは『苦悩を背負う人々のために--彼らは慰められねばならないからである』となるだろう」と述べていることを付け加えておこう。 東日本大震災5年のこのときに「ドイツ・レクイエム」が演奏されることの意味がクロスの献辞からもわかる。 |
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《コンサートのご案内》 | ||||||||||||||||||||
東日本大震災 心の復興祈念コンサート ヨハネ・ブラームス ドイツ・レクイエム(字幕付き)
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〈このごろの斎藤純〉 | ||||||||||||||||||||
〇昨秋、出版された『東日本大震災鎮魂岩手県出身作家短編集 あの日から』に収録されている拙作「あの日の海」の朗読劇が開催されます。会場でお目にかかりましょう。 【とき】2月14日(日)午後2時開演 【ところ】風のスタジオ(肴町4-20永卯ビル3階) 【一般】前売り1000円(当日1200円)シニア・学生各200円引き 【演出】東海林浩英 【出演】河辺邦博(IBCアナウンス学院)、千葉伴、上野敏明、東海林千秋(プロデュース)、 斎藤純(原作・音楽プロデュース) |
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ブラームス:ドイツ・レクイエムを聴きながら | ||||||||||||||||||||