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目と耳のライディングバックナンバー

◆第369回 大瀧詠一さんを偲ぶ(13.Jun.2016)

 盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で開催中(7月3日まで)の『大瀧詠一の青春展』は、岩手出身で2013年12月に急逝された大瀧詠一さんの青春時代にスポットを当てて紹介している好企画だ。
 同展の関連イベントとして、6月11日(土)午後2時からギャラリートークが行なわれた。
 ギャラリートークは2部に分かれ、第1部では釜石高校時代の同窓生が登壇し、高校時代の大瀧さんのエピソードが披露された。客席には釜石高校、花巻北高校の同窓生もいらしていて、当時の思い出が大いに語られた。
 高校生のころの大瀧さんは「遅刻ばかりしていた」が、「英語は抜群にうまかった」という。大瀧さんと一緒にバンドを組んでいた山下さんは「(大瀧さんが)上京したとき、東京へ来て一緒にバンドをやらないか」と誘われたというエピソードを明かした。
 2部は瑞穂町からいらした「大瀧詠一さんを語る会」の栗原代表らが登壇し、その活動内容が紹介された。
 私は大瀧さんが暮らしていたのは福生だとばかり思っていたが、隣接する瑞穂町に自宅(兼スタジオ)があった。栗原代表によると「あえて福生の名を前面に出して」カモフラージュしていたようだという。このことは大瀧さんと岩手の結びつきについても言える。
 同展によって、大瀧さんが岩手出身であることを初めて知った方が多いと聞いた。確かに大瀧さんは「岩手出身」と前面に出すことはなかった。といって、秘密扱いしてひた隠しにするというわけでもなかった。
 大瀧さんと岩手の結びつきを示す事例のひとつとして、東日本大震災後に釜石高校時代の同級生のもとに「無事でいることがわかったので」とサイン入りのCDボックスセットが贈られてきたというエピソードを挙げておこう。積極的に「岩手出身」と公言することはなかったが、かといって決して郷里を捨てたのでもなかった。
 「大瀧詠一を語る会」の栗原代表は、アメリカ文化(米軍基地)とじかに触れられる福生に近いこともさることながら、岩手のように豊かな自然が残っていることも大瀧さんが瑞穂町に住んだ理由だったように思うとおっしゃっていた。
 実は大瀧詠一さんと1994年に一度だけお目にかかったことがある。
 一関のジャズ喫茶ベイシーに大瀧さんがいらっしゃり、そこに私が同席させていただいたのだ。二人でコーヒーを飲みながら、リー・モーガンの『サイドワインダー』などを2時間あまり聴いた。大音量でジャズを聴いていたのであまりお喋りはしなかったが、大瀧さんのご著書『オール・アバウト・ナイアガラ』にサインをしていただいた。当時、この本は絶版状態だったし、持っている人も少なかったから「この本を持っているのは偉いです」とおっしゃった声と笑顔が忘れられない。
 ところで、『大瀧詠一の青春展』はずいぶん力が入っていると思ったら、田口善政館長が大瀧詠一さんの大ファンで、1970年代にはっぴぃえんどのコンサートに足を運んでいたという。田口館長は市役所職員だったころから「シンガーソングライター公務員」として異色な存在だった。やはり、こういう方が文化施設の「長」をつとめると、その施設が勢いづく。文化行政の成功例と言っていいだろう。  大瀧詠一さんの顕彰につとめている瑞穂町郷土資料館けやき館や瑞穂町図書館も町(公立)の文化施設だ。文化施設の多くがハコモノなどと批判、揶揄されがちな中、運営する人のセンスや努力によって、こんな素晴らしいことが実現するというお手本だろう。
 大瀧詠一さんの業績はまだ充分に理解されているとは言い難い。これから検証が進み、いかに巨大な存在だったかが明らかになっていくに違いない。
〈このごろの斎藤純〉
○この一カ月間、あちこち出かけることが多くて、月の半分くらいしか盛岡にいなかった。そのせいなのか、体重が増えてしまった。
大瀧詠一:DEBUT AGAINを聴きながら