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目と耳のライディングバックナンバー

◆第389回 村上善男さんを偲んで。(10.Apr.2017)


 花巻市萬鉄五郎記念美術館の『村上善男 展〈没後10年〉北の磁場に釘を打つ』(2月25日~4月5日)で村上善男ワールドに浸りつつ、個人の思い出を偲んできた。
 村上さんは岡本太郎門下の一人で、60年代はアヴァンギャルドの旗手として活躍し、ニューヨークでも評価された。主に津軽(弘前)と南部(盛岡)を拠点に、「風土と芸術」を常に意識した創作と執筆活動をされてきた。私にとっては「東北(あるいは北東北)のモダニズム」という着想の源になった師匠でもある。
 2006年5月4日、村上善男さんは亡くなった。73歳だった。
 その前年に、萬鉄五郎記念美術館で村上善男展が開催されている。他県からもたくさんの来館者があった好企画だった。
 そして、06年6月には岩手町立石神の丘美術館で『村上善男展―1950年代を中心に 冷たい計算から熱い混沌へ』が開催されたが、残念なことに村上さんはその展覧会の直前に亡くなられている。村上さんは岩手町在住の画家斎藤忠誠らと一緒に美術家集団「エコール・ド・エヌ」を結成(後に脱退)しているから、岩手町とは縁が深い(後に私が石神の丘美術館の芸術監督を引き受けることになろうとは、あのころは神様以外の誰も知らなかった)。
 現役の美術家で、これほどたくさんの展覧会が開かれる美術家はそう多くない。いや、とても珍しいと言うほうが正確だろう。地方で暮らし、その地に根付いた創作活動をしながら、「日本の村上善男」でありつづけた。そういう意味でも希有な存在だった。
 没後1年めの07年5月には、青森県立美術館で平成19年度常設展特別展示 『村上善男の軌跡』が開催された。このときは村上さんから青森県に寄贈された個人コレクションも展示された。デュシャンやジャスパー・ジョーンズなど、いかにも村上さんらしいコレクションに感銘を受けたものだ。
 実は私の父が村上さんと親しかったので、小さいころから可愛がってもらったが、子どものころは「偉い美術家」という漠然とした知識しか持っていなかった。父から「ユル・ブリンナーが作品を買っていった」と教わっていたから、もうそれだけで私にとっては雲の上の人だった。
 当時、私の父は洋画専門の国劇という映画館の支配人をつとめていた。小学校から帰るとランドセルを下ろし、映画館の暗がりで過ごすのが私の日常だった。だから、小学生だったにもかかわらず、フェリーニ監督や007シリーズなどの映画に熱中していた。そんなわけで、ユル・ブリンナーのことも『荒野の七人』のファンだったから知っていた。
 もっとも、村上さんは私の家で父といつも酒を飲んでばかりいたから、「酔っぱらいのおじさん」という印象のほうが強い。と同時に「おしゃれなおじさん」という印象もある(後に「2色以上は身に着けない」という村上善男流ダンディズムを知る)。
 村上善男の作品を知り、惹かれるようになったのは、社会人になってからのことだ。
 ただ、村上さんの作品をギャラリーや美術館などで拝見することはあっても、ご本人とのお付き合いはなかった。
 17年前だったろうか。ある出版社の編集者が、
「装丁をお願いしに行った美術家が盛岡出身なのを思いだして。斎藤純さんを知っているだろうかとお訊きしたところ、『知ってるも何も、こんな小さなときから』と--。どなたかわかりますか」
「村上善男さんでしょうか」
「当たり!」
「もう何十年もお会いしていませんが」
「村上先生もそうおっしゃってました」
 このやりとりを契機に村上さんとの交流が復活する。村上さんの個展が銀座でひらかれていると聞き、足を運んだところ、たまたま村上さんもいらしていて、再会することができたのだ。 「ああ、その目だ。君が子どものころもその大きな目でぼくをじっと見ていたっけ。変わらないね」
 村上さんはそうおっしゃって私を迎えてくれた。
 ギャラリーには津軽の古文書をベースにした「釘打ちシリーズ」が展示されていた。
「ICチップを連想しました。最先端のICチップも拡大して内部を窺えば、古い日本の文化や、漢字の世界が凝縮されているという意味でしょうか」
 私が感想を申し上げると、意外にも村上さんはICチップをご存じなかった。
 この再会がきっかけになり、お互いに本を送ったり送られたりするようになった。
 当時、岩手日報に連載していたコラムで村上さんのご著書『赤い兎―岡本太郎頌』(創風社)を「岡本太郎を語ることで村上氏自身を語る自画像のような本」と紹介したところ、「いい文章を書くなあ」と褒めていただいた。
 最後にお会いしたのは、岩手県立美術館で何かの展覧会の初日だった。「知り合いといっぱい会うから、初日ではなく、別の日にゆっくり観るほうがいいね」とおっしゃって、笑った。
 萬鉄五郎記念美術館で私はこんなふうに村上さんのことを思いだしながら、上記の「釘打ちシリーズ」はもちろんのこと、あまり作品をまとめて観る機会がない仙台時代の「気象シリーズ」、「貨車シリーズ」を興味深く見た。
 同じ空間に、長身をモノトーンの服で包んだ村上さんがいらしているような気がして、私は何度か後ろを振り返らずにいられなかった。
〈このごろの斎藤純〉
〇30代で花粉症を発症して以来、この季節はつらく、大変な思いをしてきたが、一昨年の秋から始めた舌下免疫療法のおかげでとても楽になった。この治療法は今のところスギ花粉とハウスダストが開発されている。私はスギ花粉の治療が一段落したら、やはり重度のアレルギーであるハウスダストの舌下免疫療法に挑みたい。
○花粉症をほぼ克服できたことでもあり、去年はあまり乗れなかったロードバイクとオートバイにたくさん乗りたいと思っている。
ザ・ローリング・ストーンズ:ブルー&ロンサムを聴きながら